第4話
晴香は残った力を振り絞り、地面から跳ね起きた。
深也に寄りかかっていた茉莉は、血まみれの女がこんな勢いで飛び込んでくるなど想像もしていない。
晴香は茉莉を乱暴に弾き飛ばし、そのまま煙草の匂いが染みついた胸へ突っ込んだ。
「きゃっ!」
茉莉が悲鳴を上げ、ヒールがぐらりと崩れてよろめく。数歩よろけて、ようやく立ち直った。
晴香は深也の腰にしがみつき、顔を胸に押しつけた。涙がシャツをじわりと濡らしていく。
強引で、冷たくて、近寄りがたい匂い。なのに、どうしようもなく安心してしまう。
「深也……会いたかった……」
声が震える。
「本当に、会いたかった……もう二度と会えないと思った……」
深也の身体が、石みたいに硬直した。
こんなふうに縋りつく晴香など、見たことがない。今までの彼女は、目が合うだけで逃げ、眼差しには嫌悪しかなかったのに――。
深也は視線を落とし、胸元に顔を埋める惨めな女を見た。驚きが一瞬走り、すぐ嫌悪で塗りつぶされる。
また新しい手口か。昨日まで淵のために死ぬだの何だの騒いでいた女が、今日は会いたかった?
深也が鼻で笑う。
「淵のために、とうとうこんな手まで使うようになったか?」
「助けるためなら、身体でも売るってことか?」
晴香は必死に首を振った。
「違う……本当に、あなたが……」
弾き飛ばされた茉莉がようやく我に返る。汚れて臭う女が自分の男に抱きついている――その事実だけで顔が歪んだ。
「離しなさいよ!」
茉莉は駆け寄ると、晴香のウェディングドレスの襟元を掴んで引き剥がそうとする。
「神城社長に触るとか身の程知らず! 自分の姿見てみなさいよ、汚っ!」
晴香はもともと限界だった。引かれた瞬間、身体が崩れ、コンクリートに叩きつけられる。
膝が鈍くぶつかり、ぐちゃぐちゃの傷口がまた裂けた。視界が暗くなるほどの痛み。
それでも晴香は歯を食いしばり、手足を使って這い起きようとする。もう一度、深也に触れたくて。
そのとき、長い指が伸びた。
深也が晴香の顎を掴み、無理矢理顔を上げさせた。血走った赤い目が、逃げ場なく突き刺さる。
「お前、心ってものがあるのか?」
歯を噛みしめた声。こめかみの血管がどくどくと跳ねる。
「昨日はお前が刃物を振り回して自殺騒ぎを起こして、俺に手を放せって迫った」
「淵を愛してる、犬にだってなるって言った」
「それで今さら、俺が恋しいだと?」
顎を掴む手が震えた。
「俺を馬鹿にしてるのか。それとも俺が生まれつき下衆で、何度でも弄ばれて当然だと思ってるのか?」
晴香は、その瞳の痛みに胸が潰れそうになった。前世と今が絡み合い、息ができない。
言葉じゃ届かない。信じてもらえない。だったら――。
どこから力が湧いたのか、晴香は必死に身を起こし、深也の唇へ無我夢中で口づけた。
深也が凍りつく。
柔らかな感触が触れた瞬間、頭の中が真っ白になった。
晴香が、キスした?
あの、触れられるのも嫌がった晴香が――自分から?
だが次の瞬間、煮えたぎる怒りが全身を満たす。
俺を何だと思ってる。呼べば来る犬か。
淵のために、ここまでやるのか。
「……離れろ!」
深也は怒鳴り、力任せに突き飛ばした。
勢いが違う。晴香の身体が宙を舞い、背中から噴水の大理石の縁へ叩きつけられる。
「――っ!」
激痛。晴香は地面に伏し、血を吐いた。
その血を見た瞬間、深也の心臓がきゅっと縮む。
抱き上げたい。駆け寄りたい。
だが足を上げかけて、無理矢理止めた。
甘い顔をするな。
あいつは嘘つきだ。少しでも優しくすれば、平気で刃を突き立ててくる。
深也は深く息を吸い込み、胸の奥の揺れを押し殺して歩み寄る。
屈み、晴香の乱れた髪を掴み、乱暴に頭を引き上げた。
「見ろ。今のお前、どんなツラしてる」
噴水の水面へ、無理矢理顔を向けさせる。
映っていたのは、灰と血で汚れた顔。絡まる髪。破れたドレス。
「俺に媚びるためなら、こんな下品な真似までできるのか?」
「どうした。淵に満足させてもらえなくて、俺のところに転がってきたか?」
頭皮が裂けるように痛い。
それでも晴香の胸に憎しみはなかった。
彼が酷い言葉を吐くほど、彼自身がどれほど痛いか、知っているから。
「深也……演技じゃない……」
かすれる声で、必死に言葉を繋ぐ。
「一緒にいたい……お願い、追い出さないで……」
深也の中の火は、さらに激しく燃え上がる。
なぜだ。なぜ、手を放すと決めた今になって戻ってくる。
「深也って呼ぶな! お前に呼ぶ資格はない!」
深也は手を振り払って立ち上がり、見下ろした。
「哲也。捨てろ」
「二度とグラン・レジデンスに近づけるな。破ったらお前の脚を折る」
背を向ける。ここにいたら自分が壊れる。殺すか、抱きしめるか、そのどちらかしかできなくなる。
「嫌! 行かない!」
晴香は床を這い、血の筋を引きずりながら追った。
深也の足元に辿りつくと、血と泥にまみれた両腕で脛にしがみつく。
「行かない! 殺すなら殺して! 死ぬならここで死ぬ!」
泣き声が裂ける。
「私が悪かった……目が腐ってた……狼心狗肺だった……」
「女中でも、愛人でもいい……あなたが見えるなら、何だってする……」
高価なスラックスの裾に頬を擦りつけ、どうしても離さない。
あまりに卑屈な姿に、周囲が言葉を失った。
深也は足を止め、脚にしがみつく震える塊を見下ろす。
――掌に載せて育てた姫が、どうしてここまで落ちた。
歯を食いしばり、ゆっくりしゃがみ込む。口角だけ冷たく吊り上げた。
「今日のこの惨めな芝居、淵が教えた新手か?」
「演技は上手い。……でも俺はもう見飽きた」
そう言い捨て、情け容赦なく脚を振り上げる。
蹴り飛ばそうとした、その瞬間。
晴香は縫い付けられたみたいに離れなかった。
「違う! あいつのためじゃない! 深也、お願い……一度だけ信じて……!」
「私、淵とは終わった! 刺したの!」
「嘘なら、今世ろくな死に方しなくていい……!」
泣き叫びながらズボンを掴む指が折れ、爪の間から血が滲んだ。
