第5話
深也の足が、ほんのわずか止まった。
淵を刺した、だと?
――笑わせる。あいつを愛して、命だって投げ出す女が、そんな真似をするはずがない。
居座るための、でっち上げだ。
深也は目を閉じ、胸の奥に生まれかけた馬鹿げた鼓動を、力で押し潰した。
「……本気で見切ったってわけか」
横の哲也へ、氷みたいな視線を投げる。
「何ぼさっと突っ立ってる。辞めたいのか?」
哲也はびくりと肩を跳ねさせ、慌ててボディガードへ手を振った。
「おい、もう一回引っ張れ!」
二人のボディガードが再び飛びかかり、晴香の指を力任せにこじ開けて、外へ引きずり始める。
「今日ここで私を捨てたら、今すぐ目の前で死ぬ!」
晴香は髪から、先の尖ったダイヤの髪留めを引き抜いた。刃のような先端を、躊躇なく自分の頸動脈へ押し当てる。
ぷつり、と皮膚が裂け、赤い血が白い首筋を伝った。
深也の目が刺される。だらりと下げていた手が、ぎゅっと拳になる。
――この女はいつも、俺の急所だけ正確に握ってくる。
苦肉の策だとわかっていても、首を染める血を見た瞬間、心臓がえぐられたみたいに痛んだ。
「死にたいのか?」
深也は鼻で笑う。目の奥は獣みたいに凶い。
「俺が飽きるまで、お前に死ぬ資格はない」
手を振り、ボディガードを下がらせる。晴香を、ゴミでも見るように一瞥した。
「残りたいなら残れ。犬になりたいなら、なれ」
背を向けると同時に、呆然としていた茉莉の腰を乱暴に抱き寄せる。
「哲也。こいつを着替えさせろ。その血と泥で目が腐る」
さらに、冷たく言い捨てた。
「今日からこいつは、茉莉専属のメイドだ」
張りつめていた晴香の神経が、ぷつんと切れた。
手から髪留めが落ちる。
カラン。
――残れる。そばにいられる。犬でも、構わない。
十分後。
晴香はサイズの合わないメイド服を着せられていた。肩は落ち、身頃は空っぽで、スカート丈は不自然なほど短い。傷だらけの脚がむき出しになる。
二階のソファで煙草を吸う深也の視線が、ふっと階下へ落ちた。
かつて、長く立たせることすら惜しんだ足。
いまは擦り剥け、肉がめくれ、血が滲んでいる。見るだけで背筋が冷えるほど、ひどい。
煙草を挟む指が、わずかに震えた。胸の奥が、鈍く殴られる。
――こいつ、何をしてこんな有様にした。
哲也が顔色を変え、恐る恐る近づいて声を潜める。
「社長、さっき確認が取れました。浅倉さん、式場から……ずっと裸足でここまで来たそうです。途中、事故現場も通ったらしくて、路面にガラス片が――」
言い終わる前に、深也が立ち上がり、低く吠えた。
「目ぇ腐ってんのか! あれ見てわからないのか。医者を呼べ!」
「は、はいっ!」
哲也は転げるように走り去る。
深也は晴香の足から目を外せない。胸が荒く上下する。
――晴香。お前、狂ってる。
あの畜生のために、こんな距離を裸足で? 前は指先を少し切っただけで泣いてたくせに。
そんなに好きか。脚を捨てても?
「何突っ立ってる!」
深也が階下へ怒鳴り落とす。
「厨房へ行け。茉莉が腹減った」
晴香は唇を噛み、刺すような痛みを飲み込んで、びっこを引きながら厨房へ入った。
玉ねぎを刻む。
つん、と鼻を刺す辛味に涙が噴き出し、止まらない。
いつの間にか、深也が厨房の入口に立っていた。ドア枠にもたれ、冷たく見下ろしている。
「もう無理か? 飯作るだけで可哀想ぶって」
晴香はぐしゃっと涙を拭った。
「……違う。玉ねぎが、辛くて……」
「くだらねぇ」
深也が嗤う。
「晴香。その惨め面、見てると吐き気がする」
動揺で手元がぶれる。
「っ……!」
包丁が人差し指を切り裂き、血がどっと溢れた。
同時に、深也が踏み込んでくる。晴香の手首を掴み、流血する指先をそのまま口に含んだ。
ちゅ、と血を吸う。
温かい湿り気が、晴香の神経を一気に痺れさせた。身体が硬直する。
深也は眉を寄せ、彼女を水場へ引っ張って傷口を洗う。
「切るだけで怪我すんな」
「何歳だ。馬鹿か」
口は悪い。だが、絆創膏を探す手は止まらない。
晴香は、彼の横顔を見つめた。目の奥の焦りが、まだ消えていない。
胸が熱くなって、視界が滲む。
――まだ、気にしてくれてる。言葉じゃなくて、身体が。
晴香は傷だらけの足で背伸びをし、絆創膏を貼る深也の顎へ、羽みたいに軽く口づけた。
一瞬。
深也が凍りつく。
顔を上げ、信じられないものを見る目で晴香を見た。
晴香は涙を溜めたまま、かすかに笑う。
「……心配してくれるんでしょ?」
深也は火傷したみたいに彼女を突き放した。
「勘違いすんな!」
顔を背ける。耳の根が、妙に赤い。
「お前の汚い血で厨房が汚れたら、飯が不味くなるだけだ!」
その時、哲也が専属の医者を連れて、息を切らして飛び込んできた。
「社長、医者です!」
深也は一瞬で冷えた仮面に戻る。
「脚を診ろ。俺の家で死なれたら縁起が悪い」
医者は晴香の足を見るなり、ひゅっと息を呑んだ。
処置は地獄みたいに痛い。ピンセットがめくれた肉の間を探り、ガラス片や小石を次々と摘み出していく。
晴香は顔面蒼白になり、冷汗を流しながら、唇を噛み切って声を殺した。
深也は少し離れたソファで書類を開いていた。だが、文字は一つも頭に入らない。
視線だけが、血まみれの足に貼りついている。
ピンセットが動くたび、眉がわずかに跳ねる。
――なんで、俺が痛い。
処置が終わったあとも、晴香はさらに一時間かけて食卓を整えた。
家庭料理。でも、色も香りもいい。深也が昔好んだ味。
深也は一瞥し、冷笑して、スープ椀を手で払った。
「毒でも入れたんだろ。俺を殺す気か?」
晴香は言い返さない。箸を取り、料理を一口ずつ自分で食べて見せる。
「毒なんて……深也、私があなたを――」
「黙れ! 誰が深也って呼べと言った」
深也は茉莉を抱き寄せ、粥の椀を指差した。
「毒じゃないなら、女中の仕事をしろ」
「茉莉に食わせろ」
「……はい」
晴香は胸の酸っぱさを押し込み、粥を持って茉莉の前へ差し出す。
「どうぞ」
茉莉は晴香を見下ろし、楽しそうに口角を上げた。
そして、受け取るふりをして――
「ぱんっ!」
手で叩き落とした。
熱い粥が、晴香の手の甲にぶちまけられる。
「……っ!」
赤く腫れ上がり、焼けるような痛みが走った。
