第6話
「きゃっ、熱っ! 殺す気!?」
茉莉が先にわめき立て、跳ねるように立ち上がった。
「深也、見てよ! この女、絶対わざとだよ!」
深也の視線が、晴香の手の甲に吸い寄せられる。赤く腫れ上がった皮膚。
瞳孔が、きゅっと縮んだ。
その瞬間、駆け寄って確かめそうになって――踏みとどまる。
甘い顔をするな。自業自得だ。
深也はテーブルを叩きつけ、低く怒鳴った。
「こんなこともできないのか。お前、他に何ができる?」
「そんなに世話が嫌なら、さっさと女中部屋へ戻れ。ここで俺の目障りになるな!」
晴香は痛みに震えながらも、頑なに顔を上げる。
「行かない……ここにいる……」
ガシャァン!
深也が乱暴に食卓をひっくり返した。
皿が床に叩きつけられ、料理がぐしゃりと散る。スープが飛び、陶片がきらきら跳ねた。
晴香の肩がびくりと震え、反射的に身をすくめる。
「お前の顔を見るだけで吐き気がする」
深也は晴香を見ようともせず、屈んで茉莉を抱き上げ、そのまま大股で階段へ向かった。
「きゃっ」
茉莉は嬉々として深也の首に腕を回し、振り返って晴香へ勝ち誇った笑みを投げる。
階段の上から、命令だけが落ちてきた。
「ここ、全部片付けろ。終わるまで寝るな」
晴香はその場に固まり、絡み合う二人の背中を見送った。
心臓がぎゅっと掴まれ、息が詰まる。立っていられず、ゆっくりしゃがみ込む。
ぽた、ぽた。
涙が床の料理に落ち、汁と混ざって滲んだ。
主寝室の扉が、どん、と重く閉まる。
すぐに、扉の向こうから女の喘ぎ声と男の低い声が漏れてきた。
壁越しでも容赦なく耳を刺し、晴香の鼓膜を何度もえぐる。
手にしていた陶片が、ぱたりと床へ落ちた。
両手で耳を塞いでも、音は頭の奥へねじ込んでくる。
――好きな男が、今、別の女と。
「あっ……深也……やさしく……」
茉莉の甘ったるい声が、決定打になった。
「……いや……やめ……」
晴香は首を振り、よろめきながら立ち上がる。
そして邸を飛び出した。何か恐ろしいものから逃げるみたいに。
外は土砂降り。
一瞬で全身が濡れたのに、寒さは感じない。ただ、がむしゃらに走った。
深也は――自分の深也は。
前の人生で、命を捨てても守ってくれた深也は。
どうして、他の女に触れられる。
裸足が泥水を踏む。ぐちゃ、ぐちゃ。
血が雨に溶け、赤い筋になって流れていく。
もう走れない。視界がすうっと暗くなり、晴香の身体は糸が切れたように崩れ落ちた。
――二階の寝室。
深也はソファに座っていた。顔に情欲は欠片もない。目だけが重く沈んでいる。
「叫べ」
冷えた声。
「止めるな。誰が止めろと言った」
茉莉は布団にくるまり、ベッドの隅でがたがた震えていた。声はもう枯れている。
「……む、無理……もう叫べない……」
「役立たず」
深也は苛立って襟元を引き裂き、窓辺で煙草に火を点けた。
ふと視線が、階下へ落ちる。
雨幕の中、細い影がふらりと揺れ――泥に倒れた。
指先がちり、と焼ける。
深也の瞳が見開かれ、胸の奥が刺されたように痛んだ。身体が震える。
「晴香……!」
低く吠え、深也は部屋を飛び出した。
茉莉が何か言う前に、扉の外へ消える。残ったのは、ひゅう、と冷たい風だけ。
雨の夜。
深也は泥の中に膝をつき、晴香を抱き上げた。
「晴香! 起きろ!」
腕の中の身体は氷みたいに冷たく、呼吸だけがかすかに残っている。
青白い顔。濡れた女中服がやけに空っぽに揺れていた。
深也の目が赤くなる。
――いつから、こんなに痩せた。
「お前は、生まれつき俺を苦しめるためにいるんだ」
噛みつくように吐き捨てながら、抱く腕は驚くほど優しく、深也は邸へ駆け戻った。
浴室は湯気で白い。
深也は自分の手で泥を拭い、温水で傷だらけの身体を洗い流す。
膝の青痣。足裏、翻った皮。
タオルを握る手が震えた。
秦のために、ここまで自分を壊したのか。
「……心がない」
深也は赤い目で呟き、冷えた唇を噛むようにひとつ咬んだ。血の味がして、ようやく離す。
「いっそ掐み殺して、全部終わらせたい」
口ではそう言いながら、薬を塗る手は細心だった。痛ませないように、そっと。
清潔な寝間着に着替えさせ、布団へ寝かせる。
深也はベッド脇に腰を下ろし、眉から目尻まで、一寸ずつ視線でなぞった。
眠っている時だけ、あの冷酷が薄れる。
「手を放せって言われても、俺は……できない」
指先が白い頬を撫でる。
「側に置けば、殺してから自分も死にたくなる」
「晴香……俺は、どうすりゃいい」
深也はそのまま一晩中、そこにいた。
夜明けが近づいた頃、ようやく立ち上がり、表情を冷たく戻して部屋を出る。
晴香が目を覚ますと、頭が割れるように痛かった。
ぼんやり目を開ける。客室のベッド。シルクの寝間着。傷には薬が塗られ、淡い薬の匂い。
――深也が?
そう思いかけた瞬間、鋭い声が刺さった。
「起きたならさっさと働け! 誰が寝坊を許した!」
管家の賀川。尖った声に、晴香の目の光がすうっと曇る。
サイズの合わない女中服に着替えさせられ、晴香は床に膝をつき、雑巾で床を拭いた。
その時、階段から足音。
スーツ姿の深也が、茉莉を抱くようにして降りてくる。
跪く晴香を見て、口元に薄い嘲笑。
「女中が板についたな。よく磨けてる」
晴香は唇を噛み、俯いた。見れば泣く。
「そんなに人に尽くしたいなら、買い物に付いて来い」
深也は淡々と言い捨て、茉莉を抱いたまま外へ向かう。拒む隙など与えない。
晴香は足の痛みを飲み込み、びっこを引きながら後を追った。
創世モール。宝飾フロア。
茉莉がカウンターの前でくるくる回り、あれもこれも指差す。
「深也、これ、すっごく可愛い。欲しいなぁ」
「買え」
深也は迷いなくカードを放り、店員が慌てて受け取る。
そのくせ視線だけが、時折、隅に立つ晴香へ滑った。
晴香は大袋小袋を抱え、一人で立っている。
かつて自分だけの男が、他の女に惜しげもなく優しい。胸が、ずきりと痛んだ。
その時、背筋を凍らせる声がした。
「晴香?」
顔を上げると、淵が少し離れた場所に立っていた。驚愕で目を見開いている。
白いスーツ。外面だけは整っている。
淵は早足で寄ってきて、晴香を上から下まで見て、女中服に視線を止めた。
「晴香……なんだ、その格好。深也が、お前に女中なんかさせてるのか?」
痛ましげに眉を寄せ、手を伸ばして掴もうとする。
「来い。俺が連れて帰る。あいつに、これ以上辱めさせない!」
少し離れた場所の深也が、その手を見た。
眼差しが沈み、空気が冷える。
垂らした拳が、ぎゅっと固まる。骨が白むほどに。
