第7話

晴香が淵について行くなら――深也は誓っていた。自分の手であいつの脚をへし折り、ベッドに鎖で繋ぐ。死ぬとしても、死に場所は自分の腕の中だ。

茉莉は横で、愉快そうに眺めている。晴香がさっさと淵と逃げればいい、とでも言いたげに。

晴香は淵の顔を見た瞬間、前世で殺された痛みが喉の奥までせり上がった。

――こいつだ。

玩具みたいに弄んで、感情を利用して、最後はゴミみたいに捨てて殺した男。

「触らないで!」

憎悪に染まった目で、晴香は淵の手を勢いよく払いのけた。

パァン!

乾いた平手打ちの音が宝飾店に響き、空気が凍る。客も店員も、息の仕方を忘れたように固まった。

淵は頬を押さえたまま呆然とし、信じられない顔で晴香を見た。

「晴香、おまえ……」

「その口、閉じて! 誰が名前で呼んでいいって言ったの。吐き気がする!」

全身を震わせながらも、晴香は背筋を伸ばし、店中に聞こえる声で言い切った。

「私は神城深也の女! 女中でも、犬でも――それでも私が望んでる!」

「あなたは、どっか行って。汚い手で触らないで!」

言い放つと、晴香は振り返り、真っ赤な目で少し離れた場所の深也を見た。

深也の胸に燃えていた苛立ちは、あの一撃が落ちた瞬間、ふっと引いた。

棘だらけの女。その姿を見て、本人も気づかないほど一瞬、愉悦めいたものが走る。

けれどすぐ、目が沈む。

――よく出来た芝居だ。

自分を揺らすために、こいつらは人前でここまでやる。……大した根性だ。

「神城社長……」

淵は深也の陰った視線に当てられ、背筋に冷たいものが走った。頬の痛みも怒りも、まとめて霧散する。

淵は晴香を一度だけ深く見つめ、踵を返して大股で去っていった。

深也は視線を引き戻し、瞳から温度を消す。

晴香など最初からそこにいなかったかのように、茉莉の腰へ腕を回し、車のドアへ向かった。

黒いマイバッハ。

ドアが閉まるや否や、アクセルが床まで踏み抜かれ、車体は唸りを上げて走り去る。

遠ざかるテールランプを見た瞬間、晴香の胸が息をするのも苦しいほど締めつけられた。

行かせたら終わる。

また誤解されたら、もう二度と――。

「深也! 置いていかないで!」

足裏の痛みも投げ捨てて、晴香は走った。

ざらついたアスファルトが皮膚を削り、踏み込むたびに針で刺されるみたいに痛い。それでも止まれなかった。

交差点。

横から飛び出したトラックが、けたたましくクラクションを鳴らす。

プワァァァン!

なのに晴香の視界には、深也の車しか映らない。一直線に車道へ踏み出した。

「死にてぇのか!」

運転手の顔が真っ青になる。ブレーキが悲鳴を上げ、車体が晴香の脇すれすれで止まった。

その先で、マイバッハが甲高い摩擦音を引き裂くように響かせ、黒いブレーキ痕を長く残して急停止した。

ドンッ、とドアが蹴り開けられる。

深也が飛び出してきた。顔色は紙のように白く、額の血管が浮いている。

数歩で間合いを詰め、晴香の襟を掴み、乱暴に持ち上げた。

「死にたいのか!」

咆哮が鼓膜を震わせる。

掴む手が、わずかに震えていた。ミラー越しに“轢かれる”光景を見た瞬間、心臓が止まりかけたのだ。

晴香は荒い息のまま、涙を溢れさせて深也を見上げる。

「死ぬのは怖くない……怖いのは、あなたに捨てられること……」

「黙れ!」

深也の目が吊り上がり、凶気が濃くなる。

ポケットから折り畳みナイフを取り出し、カチン、と刃を弾いた。冷たい光。

深也は晴香の手を掴んで柄を無理やり握らせ、そのまま手首ごと引き、刃先を自分の胸――心臓の位置へ押し当てさせた。

深也は彼女の目を射抜き、掠れた声で吐き捨てる。

「ここだ。刺せ」

「一発で終わらせろ。そうすりゃ二度と、お前と淵の邪魔をしない」

刃先がシャツを裂き、熱い肌に触れる。

晴香の指が激しく震え、掌が柄に食い込んで痛んだ。

前世。

同じように、淵のために――この人へ刃を向けた。

後悔が胸を握り潰す。

「……できない……」

指がほどけた。

カランッ。

ナイフが地面に落ちた音が、やけに大きく響く。

晴香は泣き崩れるように深也へ飛び込み、細い腰を両腕で抱きしめた。顔を胸に押しつける。

「殺さない……愛してる……」

「この一生、私が愛するのはあなただけ……!」

息が詰まりそうなほど必死に縋りつく。

「そばにいたい……お願い、追い出さないで……いらないって言わないで……」

濡れた涙が、胸元の布をあっという間に染めた。

深也の身体が硬直する。

抱き返したい、と指先が動きかけた――けれど次の瞬間、深也は力任せに突き放した。

晴香はよろめき、二歩下がって転びそうになる。

深也は見下ろした。眼差しは空っぽで、底だけが冷たい。

「……演技が上手くなったな」

一歩、また一歩。壁際まで追い詰める。

「愛?」

「何で愛する。淵と結婚するために手首を切った、その手でか?」

深也は晴香の左手を乱暴に掴み、手首の古傷を指先で擦った。

歪んだ傷跡。彼にとっては棘そのもの。

「浴槽で血を流して、床が真っ赤になって」

「俺が手術室の前で医者に頭を下げてた時――お前はどこで『愛してる』って言った?」

吐き捨てる声が震える。

「今さら愛だ? 気持ち悪い」

手を放し、ハンカチを取り出す。一本一本、汚れでも落とすみたいに指を拭った。

「消えろ」

背を向ける。躊躇のない背中。

「また目の前に出たら……俺が掐み殺す」

晴香は、その背中を見たまま力が抜けた。

何を言っても、何をしても、信じてもらえない。

――自分がやったんだ。深也の心を、殺した。

「ごめん……深也……ごめん……!」

晴香は突然、自分の頬を殴った。

パァン!

乾いた音が、人気の薄い道路に痛々しく響く。

深也の足が一瞬止まる。だが、振り返らない。

パァン!

二度目。

力いっぱい。白かった頬が一気に赤く腫れ、口角に血が滲んだ。

「私が悪い……目が腐ってた……!」

パァン!

「あなたの心を踏んだ……あんな畜生を信じた……!」

泣きながら、何度も何度も叩く。

打ちのめして消えるなら、それでもいいとでも言うみたいに。

背後の音が、深也の胸を締めつけた。

「……くそっ」

舌打ち。深也は踵を返し、数歩で戻ってくると、晴香の手首を強く掴んで止めた。

「何をやってる!」

腫れ上がった頬を見た瞬間、胸の奥が鋭く疼く。

――こいつは、いつも俺の一番痛いところを正確に刺す。

晴香は涙で滲んだ目で見上げ、壊れた声で懇願した。

「深也……怒らないで……」

「殴っていい、殺していい……だから、お願い……追い出さないで……」

尊厳も何もかも捨てて。

ただ、彼に一度でも見てもらうために。

前のチャプター
次のチャプター