第8話
深也はそのみじめな姿を目にした途端、胸の奥がぎゅっと詰まった。理由もない苛立ちと、針みたいな痛みが絡み合い、息がしづらい。
深く息を吸い込み、抱きしめたい衝動を無理やり押し殺す。顔に冷たい仮面を貼り直した。
「死にたいならよそで死ね。俺の目を汚すな」
そう吐き捨てて手を振り払う。
「そんなに女中が好きなら本邸に帰れ。便器でも磨いてろ」
それきり振り返りもしない。深也は車へ乗り込み、ドアを叩きつけた。
マイバッハが再び唸りを上げ、黒い影となって走り去る。
晴香はその場に立ち尽くし、テールランプが視界から消えるまで見送った。口元の血を、乱暴に拭う。
泣かなかった。
女中をやれと言ううちは、まだ終わっていない。あの家から完全に追い出されていないなら、まだ――機会はある。
この一生は、彼女が彼の心を、傷だらけになった心を、少しずつ温める番だ。
晴香は痺れかけた傷足を引きずり、屋敷へ戻った。踏み出すたび足裏がずきりと突き刺し、さっき向けられた氷みたいな視線が胸を抉る。
それでも諦めない。そばにいられるなら、呼べば来る犬でもいい。
物置でモップを探し、バケツに水を満たす。息を整え、主寝室の扉を押し開けた。
深也はちょうどネクタイを外していた。晴香の姿を見た瞬間、顎の線がきつく張る。
「誰が入れと言った」
晴香は答えない。俯いたままモップを握り、床を拭き始めた。
「出て行け!」
深也は大股で詰め寄り、モップを奪うと、彼女ごと乱暴に外へ放り出した。
晴香はよろめいて数歩、背中をドン、とドア枠にぶつける。激痛に冷や汗が噴き出した。
深也が扉を閉めようとする。だが晴香は手で枠を掴み、必死に抵抗した。
「行かない……私はあなたの女中。主人の部屋が汚れてるなら、拭くのが仕事」
顔を上げる。紙みたいに白い頬に貼りついた頑固さは、かつて淵のために彼へ噛みついていた頃と同じだった。
深也の目が険しく細まる。苛立ちが爆ぜたみたいに、足元のバケツを蹴った。汚水がばしゃっと床に広がる。
「いい。居座りたいんだな?」
髪を掴み上げられ、晴香の首が反り返る。深也が上から覗き込んだ。
「ちゃんと身支度しろ。夜、来い」
そう言い捨て、晴香を突き放す。扉が目の前で――バン、と閉まった。
晴香は濡れた床に尻もちをついた。身体の痛みなんて構っていられない。曇っていた瞳の奥に、かすかな光が灯る。
夜、来い。
それは――機会、だろうか。たとえ屈辱でも、近づけるなら、それでいい。
夜更け。屋敷はしんと静まり返った。
晴香は何度も身体を洗い、白い寝間着に着替えた。傷は隠し切れない。それでも、ぎりぎり覆える。
彫刻の施された木扉の前。掌は冷や汗で濡れ、心臓の音がうるさいほど響く。
扉を押すと、部屋を照らすのは壁灯ひとつだけ。薄暗い橙色。
深也は煙草を指先に挟み、赤い火が闇の中でちろちろ明滅していた。煙が顔の輪郭を曖昧にし、表情が読めない。
「来たか」
掠れた声。どこか張り詰めている。
晴香が一歩近づき、「深也」と呼ぼうとした瞬間――熱い手が手首を掴んだ。
反応する間もなく、身体がぐっと引かれ、ソファに押し倒される。
深也の指が顎を挟む。骨がきしむほどの力で持ち上げられ、血走った目を無理やり見せつけられた。
「晴香。お前、何がしたい」
煙草の匂いと彼の息が押し寄せ、くらりとする。
「なんで逃げた。淵の指示か?」
「神城家の情報を探りに来たのか」
顎の痛みに目の奥が熱くなる。晴香は必死に首を振った。
「違う、深也……!」
「私、淵が憎い! 式で刺したの! 知らないの?」
焦って言葉を繋ぐ。伝わってほしい。ただそれだけだった。
「……はっ」
深也が鼻で笑う。心底くだらない、とでも言うように。
「刺した? どうせ示し合わせた苦肉の策だろ。俺に信じさせるための」
指先が晴香の頬をゆっくり撫でる。親密な動き。なのに声は氷みたいに冷たい。
「一か月前もそうだ。泣いて縋って、次の瞬間には神城グループの機密を盗んで淵に渡した」
その言葉で晴香の血の気が引いた。全身が勝手に震える。
――自分が、彼を地獄へ落とした。
晴香は彼の手首に縋りつき、涙をぽろぽろ落とす。声が詰まった。
「償いたいだけ……深也、お願い、一度でいい……」
「死んでも、そばにいる……どこにも行かない……」
深也はその涙を見下ろし、口元を歪めた。
同じ涙、同じ誓い。信じた結果、神城家も自分も壊れかけた。二度目など、あるはずがない。
「側にいたい?」
深也は手を放し、立ち上がって見下ろした。目にあるのは嘲弄だけ。
引き出しを開け、用意していた書類を掴む。そのまま容赦なく、晴香の顔へ叩きつけた。
「なら、これに署名しろ」
晴香は震える指で紙を拾い、暗い灯りの下で文字を追う。
『愛人契約』
並ぶ条項は、どれも人格を踏みつけるものだった。
名分なし。尊厳なし。呼べば即座に来い。絶対服従。
玩具扱い。商品以下。
「読めたか」
深也は新しい煙草に火を点け、煙越しに冷たく見下ろす。怒って破り捨てて出て行くのを待っている目だった。
「署名したらお前は俺の犬だ。神城深也の一番下卑た玩具」
「俺が止めない限り、受けろ。死んでも、俺のベッドで死ね」
晴香は胸がきゅっと縮み、息が詰まった。
それでも――そばにいられるなら。
彼が少しでも怒りを鎮めるなら。
晴香はペンを取った。キャップを外し、震える手で署名欄に名前を書く。
晴香。
深也の指が止まる。煙草を挟んだ手が、わずかに揺れた。
……本当に書いた?
あの傲慢だった晴香が?
晴香はペンを置き、真っ赤な目で見上げた。卑屈で、縋るみたいに。
「書いた……」
「私、あなたのもの。要るなら、ずっと……」
墨の乾かない署名を見つめ、深也の胸が殴られたみたいに苦しくなる。
淵のために、ここまで――?
「……いい。上等だ」
深也は煙草を揉み消し、晴香の腕を掴んで引きずり起こした。乱暴に、背後のベッドへ押し倒す。
「そこまで自分を安売りしたいなら、望み通りにしてやる」
覆いかぶさる影。眼底には猩紅だけが残っていた。
