第9話
熱を帯びた大きな手が、まだ晴香のネグリジェを乱暴に引き裂こうとしている。けれど彼女は突然、反対の腕を回して男の首にしがみついた。頬を伝う涙まで、火傷しそうに熱かった。
「……認める。1か月前、神城グループの機密が漏れたのは……私がやった」
深也の動きが、ぴたりと止まる。
血のように赤い瞳が、逃げ場もなく晴香を射抜いた。
晴香は腕を緩めない。むしろいっそう強く、灼けるような胸板へ頬を押しつける。
「そのときは人を見る目がなかった。淵っていう畜生に騙されて……あなたを傷つけるような馬鹿なことをした」
息が震える。
「でも、もう後悔してる。式であいつに刃を突き立てた瞬間……私の中では全部終わったの」
顔を上げ、必死に言葉をつなぐ。
「深也……今は、あいつを殺したい。あなたのそばに残って、償いたいだけ……」
「黙れ!」
深也の手が、彼女の喉を鷲掴みにした。骨ごと握り潰すつもりみたいな力。晴香の息がひゅっと詰まる。
「俺が、そんな寝言を信じるとでも?」
唇の端に嘲りが浮かぶ。
「決裂した? 俺だけが欲しい? ……笑わせるな」
深也は片手で、ベッドサイドに置いてあった飲みかけのウイスキーを掴み上げた。
「忠誠を示したいなら、誠意ってやつを見せろ」
ぐい、と深也が烈酒を一気にあおる。
次の瞬間、乱暴に顔を落とし、晴香の唇を噛み潰すみたいに塞いだ。
熱と支配の匂い。
辛い酒が、男の息と混ざって、無理やり喉へ流れ込む。
「げほっ……げほ……!」
晴香はむせ返り、涙がぼろぼろこぼれた。肺の奥が焼けるように痛い。
——酒に触れただけで、全身に蕁麻疹が出る。
深也は知っている。昔はアルコール入りのチョコですら、口にさせなかったくせに。
なのに今は、それを試しに使う。痛めつけるために。
「どうした?」
深也は唇を離し、親指の腹で口元の酒を乱暴に拭った。眼差しは底なしに暗い。
「それくらいで無理か? 俺のためなら死ぬんじゃなかったのか」
彼はボトルをベッドサイドに叩きつける。
「ドンッ」
「飲め」
「今夜、俺が満足するまで飲めたら……お前があいつと切れたって、信じてやる」
晴香はボトルを見つめ、顔から血の気が引いた。
これを飲めば、過敏反応は一気に出る。下手をすれば命取り。
それでも。
深也の瞳に浮かぶ嘲笑を見た瞬間、逃げ道はないと悟った。
一分でも信じてほしい。怒りを鎮めてほしい。
それだけのためなら——命くらい、安い。
「……わかった。飲む」
震える手でボトルを掴み、目を閉じて一気に流し込む。
喉を通るたび、刃が内側を切り裂いていくみたいに痛い。胃が灼ける。
「っ……けほ、けほ……!」
酒が口角から垂れて、白いシルクの寝間着を濡らす。薄い身体が小刻みに震え、布地に輪郭だけが浮き出た。
深也は冷え切った目で、それを見下ろしている。
待っているのだ。ボロを出すのを。昔みたいにボトルを投げつけるのを。
けれど晴香は止めなかった。痛みなんて感じないみたいに、ひたすら飲み続ける。
やがて、ボトルは空になった。
「カラン」
空き瓶が絨毯の上に転がる。
晴香は力尽きてベッドへ倒れ込んだ。
白かった首筋と腕に、みるみる真っ赤な発疹が広がっていく。腫れ上がり、ぞっとするほど鮮やかだ。
胃がひっくり返る。喉の奥に、鉄みたいな甘い味。血の味。
——だめ。見せたらだめ。
吐血を見られたら、また思われる。
同情を買うための芝居だと。
「……トイレ、行きたい……」
口を押さえ、よろよろと起き上がる。靴も履けない。裸足のまま浴室へ駆け込んだ。
深也は、その背中を見送った。
露わな肌に浮かぶ発疹。胸の奥が、針で抉られたみたいに痛む。
——酒精アレルギーだ。あいつは。
演技のために、ここまで?
「晴香、止まれ!」
手が伸びる。けれど、途中で止まった。握り拳になって戻る。
甘い顔をするな。
あれは同情を買うための芝居だ。そう言い聞かせる。
浴室から、ざあざあという水音。
その奥に、押し殺したえずき声が混じった。
晴香は洗面台にしがみつき、吐いた。
真っ赤な血。消化しきれない酒と一緒に流れ落ちる。
鏡の中の女は紙みたいに白い。口元に血が滲み、首の発疹は腫れて醜く盛り上がっていた。
ここを離れないと。
客室でも、女中部屋でもいい。とにかく今は、深也に見られたら終わる。
冷水で顔を乱暴に洗い、血を拭い、崩れそうな身体を無理やり支える。
浴室の脇扉を開け、そっと廊下へ滑り出た。
厚い絨毯。壁に手をつき、ふらふらと——一歩三歩。
女中部屋へ向かおうとした、その途中。二階の書斎の前で、微かな声が耳に刺さった。
「手早くしろ。バレたら終わりだ」
ぼんやりした意識が、ひやりと冴える。
晴香は息を殺し、壁際に身を寄せて覗き込んだ。
書斎の扉のそば、金庫の前にしゃがむ黒い影が二つ。
一人は膨らんだクラフト封筒を手に、金庫と壁の隙間へねじ込んでいる。もう一人は廊下の両側を警戒し、見張り。
「終わったか? 高坂さんの指示だ。深也はこれで終わりだぞ」
「大丈夫。入った。明日、税務署が抜き打ちで来りゃ、数百億の脱税の証拠が出て——牢屋で一生だ」
脱税。数百億。
晴香の瞳孔がきゅっと縮む。
淵は深也を潰す。創世グループごと、根こそぎ。
前世も同じだった。あいつはいつも卑劣な罠を使って、深也を追い詰める。
そして当時の自分は——それに手を貸した。
だめだ。絶対に止める。
「やめて! あんたたち、誰——!」
晴香が飛び出した瞬間、見張りの男の目がぎらついた。
躊躇もなく、手刀が後頸部に叩き込まれる。
ごん、と鈍い衝撃。
視界が墨を流したように暗くなり、声も出ないまま身体が崩れた。
男が陰気に笑う。
昏倒した晴香を肩に担ぎ上げ、そのまま書斎へ放り投げた。
……
その頃。
高坂家の別邸、地下のワインセラー。
薄暗い灯りが、淵の整った顔を半分だけ照らしていた。
赤ワインのグラスを揺らしながら、電話の向こうの報告を聞く。口元の笑みが、じわりと深くなった。
「よくやった」
ワインを一口。
薄い唇が赤く染まる。
「深也に見せてやる。自分が守った女が……背中からどう刺すのか、な」
通話を切り、グラスの水面に映る自分を見つめる。
瞳が歪み、ねじ曲がった執着が滲む。
「晴香。逃げられると思うな」
「お前の帰る場所は、俺だけだ」
低く笑い、囁いた。
「そのうち、這って戻ってくる」
「跪いて頼むんだ。もう一度、俺を見てくれって」
