第1章
「神谷洲……」
相沢栞は痛みをこらえ、かすれる声で夫の名を呼んだ。
今夜は新婚初夜。幾度となく夢見てきた瞬間――のはずだった。
だが背後の男は酒臭く、乱暴で、そこに慈しみなど欠片もない。
返事はない。酔いの靄のなか、唇が耳朶へ寄り、熱い息が降りかかる。呼ばれたのは、彼女の妹の名だった。
「柔……」
相沢栞の身体が凍りつく。胸いっぱいだった愛情が、音を立てて砕け散った。
神谷洲の心に「高嶺の花」がいることは知っていた。だがまさか、その相手が――行方不明だった妹、吉川柔香だなんて。
自分は代わり。彼は彼女の身体を通して、別の女を抱いている?
心臓を握り潰されるように痛み、息ができない。
やがて、神谷洲は一方的な略奪を終える。
起き上がり、見下ろしてくる眼差しに温度はなかった。
「薬を飲め」
投げ捨てられたのは緊急避妊薬の箱。枕元に無造作に転がる。
相沢栞の心は底へ沈み、シーツを掴む指先が白くなる。声は震えていた。
「神谷洲、私はあなたの妻よ……そんな……」
「妻だと?」神谷洲は冷笑した。「相沢栞、忘れるな。この結婚をどうやって手に入れたか」
胸が刺すように痛む。
確かに――忘れていた。
三年前の事故で、彼女は記憶の大半を失った。ただひとつ、骨に刻まれたように残ったのは、神谷洲を愛しているという感情だけ。
「私……」
言い訳を口にしかけた瞬間、男は苛立たしげに遮った。
「飲んだら客間へ行け。二度は言わない」
潔癖症の彼は、他人に自分のベッドを触らせない。
そして――彼女は「他人」なのだ。
相沢栞は目を閉じ、苦い錠剤を涙ごと飲み下した。
直後、胃の奥がぎゅっと捻じれるように痛む。身を丸め、声も出さずに耐えた。
崩れそうな身体を引きずって冷え切った客間へ戻り、ベッドに倒れ込み、毛布を頭からかぶる。
闇の中、絶望が潮のように押し寄せ、彼女を呑み込んだ。
そのとき、ナイトテーブルが不意に震えた。
手探りで引き出しを開け、縁の擦り切れた古い携帯電話を取り出す。
結婚前に使っていたものだ。神谷洲に「古い」と捨てろと言われ、こっそりしまっていた。
画面に出ていたのはリアルタイムの位置共有。地図の赤い点は、郊外の廃れたアート区画に止まっている。
相沢栞の心臓が跳ねた。
続けて、メッセージが表示される。差出人は吉川柔香。
【お姉ちゃん、助けて。誰かに尾けられてる……怖い……】
行方不明の吉川柔香が突然、助けを求めてきた。どう考えても罠だ。
相沢栞は携帯を投げ捨てて、見なかったことにしようとした。
――でも、もし本当に吉川柔香が危険な目に遭っていたら?
人の命だ。見捨てられるはずがない。
相沢栞は唇を噛み、車の鍵を掴んで位置情報の場所へ向かった。
……
夜は墨のように濃く、郊外の廃美術館は不気味なほど静まり返っていた。
地図を頼りに崩れたアトリエへ踏み込むと、湿った黴の匂いが鼻を刺す。
「柔?」
恐る恐る呼ぶ。
隅から、か細い泣き声が聞こえた。
携帯のライトを点けて光を向ける。
そこには、吉川柔香が乱れた服のまま床にうずくまり、髪はぼさぼさ、頬は涙で濡れていた。
「柔、どうしたの?」
胸が締めつけられ、相沢栞は駆け寄る。
近づいた瞬間、吉川柔香が彼女の手を掴んだ。信じられないほどの力。
相沢栞が状況を理解する前に、手が引かれ、冷たい硬いものを握らされる――ナイフだ。
次の瞬間、吉川柔香は相沢栞の手を握ったまま、迷いなく刃を自分の腹へ突き立てた。
「ぶっ――」
肉を裂く音が耳に刺さり、鮮血が一気に白いワンピースを染める。
「お姉ちゃん……どうして……」
吉川柔香は苦悶の表情で、弱々しく嗚咽した。
「洲お兄ちゃんを奪っただけじゃ足りないの……私を襲わせて……いまは、命まで奪うの……?」
「違う……吉川柔香、どうして私を嵌めるの?」
相沢栞の頭は真っ白だった。ナイフの柄を握る自分の手、腹から溢れる血。身体が石になったように動かない。
罠だと分かっていた。だが、吉川柔香が自分の命で賭けるなんて――。
そのとき、アトリエの扉が蹴り破られた。
背の高い影が飛び込んでくる。冷気をまとったような存在感。
神谷洲だ。
「相沢栞……私を殺したのはあなたよ……一生、殺人の罪を背負って苦しんで……!」
吉川柔香は最後の力を振り絞って言い切ると、瞼を閉じた。
「柔!」
神谷洲の咆哮が響いた。
次の瞬間、相沢栞の胸に強烈な衝撃が走る。蹴られたのだ。
背中が壁に叩きつけられ、内臓がずれたような痛み。喉に鉄の味が込み上げる。
それでも相沢栞は床を這い、必死に訴えた。
「違う! 私じゃない! あの子が自分で……私の手を掴んで……!」
「パンッ!」
乾いた音。頬が弾け、頭が横へ持っていかれる。耳鳴りがする。
「黙れ!」神谷洲の目は血走っていた。「相沢栞、お前は本当に悪辣だ」
彼は吉川柔香を慎重に抱き上げた。先ほど相沢栞へ向けた残虐さとは、別世界の優しさで。
相沢栞の心は、完全に砕けた。
救急車が到着し、吉川柔香は搬送された。しかし暴行を受け、さらに自傷で深手を負った彼女は、重すぎた。
「相沢栞。お前みたいな女は、死んで償え」
神谷洲は狂ったように相沢栞の細い首を掴み、持ち上げた。眼差しには剥き出しの殺意。
窒息が襲い、視界が赤く滲む。相沢栞は必死に手を伸ばして彼の指を剥がそうとする。
「げほ……私じゃない……調べて……携帯……!」
掠れた声で、必死に絞り出す。
「柔から……助けてって……短信が……」
神谷洲の動きが止まり、手が緩んだ。
相沢栞は床に落ち、酸素を貪るように吸い込む。
「新谷岩。調べろ」
神谷洲が背後の秘書へ冷たく命じる。
新谷岩は相沢栞の古い携帯を確認した。
相沢栞は心臓を握り潰される思いで見守る。
位置情報と救難メッセージが残っていれば、すべてが吉川柔香の罠だと証明できる。
だが新谷岩の顔色が、操作するほどに奇妙に変わっていった。
神谷洲に近づき、小声で報告する。
「神谷社長、関連する位置情報の履歴とファイルがフォーマットされてます。クラウドのバックアップも消されていました」
全身が冷えた。――最初から用意された罠。彼女が踏み込むのを待っていたのだ。
潔白を示す証拠は消えた。なら、待っているのは――。
「ただ……」新谷岩が言葉を継ぐ。「削除された短信の下書きを一件、復元しました」
神谷洲の目が氷のように冷える。
「内容は」
新谷岩が読み上げた。
「『何人か郊外の廃アート区画へやれ。吉川柔香に少し痛い目を見せろ』」
相沢栞の頭が真っ白になる。
彼女は弾かれたように顔を上げ、神谷洲の凍てついた瞳と正面からぶつかった。
