第2章
彼は笑った。残酷で、氷のように冷たい笑みだった。
「相沢栞、死にたいのか」
「違う、私が送ったメッセージじゃない!」相沢栞は狂ったように首を振り、嗄れた声で叫んだ。「罠よ!」
神谷洲はゆっくりとしゃがみ込み、長い指で彼女の顎を掴んだ。骨が砕けそうなほどの力だ。
「罠だと?」薄い唇が動き、吐き出された言葉は氷よりも冷たい。「柔が、自分の命を懸けてお前を罠に嵌めたとでも? 相沢栞、お前にそんな価値があると思うか」
一言一言が鋭い刃となって、相沢栞の心臓を容赦なく抉る。
価値などない。彼の中で、彼女は吉川柔香の髪の毛一本にすら及ばないのだ。
神谷洲は不意に手を離し、立ち上がった。
「殺すだけでは生温い」
「生きろ。生き地獄を味わいながら、柔に贖え」
そう言い捨て、振り返りもせずに立ち去る。
すぐさま二人の護衛が歩み寄り、床から相沢栞を引きずり起こして、別の車へ乱暴に押し込んだ。
……
病院の廊下は白々と明るい。
相沢栞は護衛に両脇を固められ、救急救命室の前に立たされていた。胸が鈍く痛み、頬は赤く腫れ上がり、口の端は切れて血が滲む。全身が惨めな有様だった。
少し離れた場所で、神谷洲は絶え間なく煙草を吹かしている。足元にはすでに吸い殻の山ができていた。
一分一秒が過ぎていく。そのすべてが耐え難い苦痛だった。
やがて、救命室の扉が開いた。
医師がマスクを外し、疲労の色を濃く滲ませて出てくる。
「申し訳ありません、神谷さん。最善を尽くしましたが……搬送された時点で、すでに心肺停止の状態でして……」
その後の言葉は、相沢栞の耳には届かなかった。ただ、医師が立ち去った後も、神谷洲が長い間その場に立ち尽くしているのだけが見えた。
次の瞬間、彼が荒々しく振り返る。血走った両眼が相沢栞を射抜き、生きたまま引き裂かんばかりの憎悪を放っていた。
「相沢栞、これで満足か」
彼女の目の前まで歩み寄り、手を振り上げる。もう一度平手打ちにするつもりかと思われたが、空中でぴたりと止まり、そのまま下ろされた。
彼はただ氷のように冷たい視線を注ぎ、一言ずつ区切って告げた。
「今日から、お前は神谷家の犬だ」
「鎖で繋いでやる。毎日苦痛に喘ぎながら生きろ。死ぬその日までな」
相沢栞は神谷家の別荘へ連れ戻された。彼女を待ち受けていたのは、薄暗く湿った地下室だった。
バン、と重い鉄の扉が閉ざされ、外の光が完全に断ち切られる。
神谷洲は言葉通り、彼女を本物の犬として扱った。
使用人が一日一回食事を運んでくるが、その大半は冷え切った残飯だった。
相沢栞の胃の持病は悪化の一途を辿った。何かを口にするたび、激痛に襲われて床にうずくまり、冷や汗を流し続けた。
どれほどの時が流れたのか。一日か、それとも二日か。この光の届かない場所では、とうに時間の意味など失われていた。
暗闇の中、三年前の交通事故をふと思い出す。多くの記憶を失ってしまった彼女の脳裏で、唯一鮮明に残っているのは神谷洲の顔だけだった。
記憶を失った彼女が、必死にすがりついたたった一本の浮き木。
だが今、その浮き木が、自らの手で彼女を奈落の底へと突き落としたのだ。
ふとした瞬間、抑えきれないほど絵が描きたくなる。それは骨の髄まで刻み込まれた本能だった。
自分はかつて画家だったのだろうか。高名な巨匠から「天才」と称賛された記憶が、微かに残っている。
けれど今の彼女の手は、絵筆を握ることすら叶わない。
不意に地下室の扉が開いた。刺すような光が差し込み、相沢栞は咄嗟に腕で目を庇う。
神谷洲が入り口に立っていた。逆光に浮かび上がるそのシルエットは以前より細く、ひどくやつれて見える。顎には青々とした無精髭が伸びていたが、その瞳に宿る憎悪の炎は少しも衰えていなかった。
「出ろ」
冷酷な命令が下る。
相沢栞はよろめきながら立ち上がった。長く動かしていなかったため、両脚がひどく痺れている。
リビングへ連れ出されると、神谷洲は彼女の目の前に書類を投げ捨てた。
「これに署名しろ」
相沢栞が視線を落とすと、それは財産譲渡契約書だった。彼女の個人資産をすべて吉川柔香の名義に変更し、補償に充てるという内容だ。
その中には、結婚前に神谷洲が彼女に贈った古い家も含まれていた。
「嫌……」相沢栞の声は弱々しかったが、確かな意志がこもっていた。「他は全部渡す。でも、あの家だけは駄目」
「お前に拒否権はない」神谷洲の眼差しが一瞬にして凍りつく。
彼はスマートフォンを取り出し、どこかへ電話をかけてスピーカーフォンにした。
「病院の相沢夫人の具合はどうだ」神谷洲が淡々と尋ねる。
相沢栞の心臓が激しく跳ねた。
彼女の母親は重い心臓病を患い、ずっと病院で治療を受けている。
『相沢夫人の容態は芳しくありません。すぐにバイパス手術を行う必要があります。費用はおよそ五十万ほどですが……』電話の向こうで声が途切れる。『口座の残高が不足しております』
神谷洲は通話を切り、顔面を蒼白にさせる相沢栞を余裕の笑みで見下ろした。
「母親の命か、お前の財産か。どちらか選べ」
卑劣極まりない。下劣だ。
相沢栞は心の中で絶叫したが、恐怖で身体の震えが止まらない。
神谷洲という男は、口にしたことを必ず実行する。彼女はそれを痛いほど知っていた。
「……署名する」
彼女はペンを手に取り、契約書の末尾に自らの名前を記した。
神谷洲は満足げに書類を回収したが、拷問はこれで終わりではなかった。
彼が次に取り出し、相沢栞の前に投げ捨てたもの――それは一着の黒い喪服だった。
「明日は柔の葬儀だ」神谷洲の声からは一切の感情が読み取れない。「お前は、彼女の墓前で一晩中跪け」
相沢栞は弾かれたように顔を上げ、信じられないという目で彼を見つめた。
吉川柔香の墓の前で、最も屈辱的な方法を用いて、身に覚えのない罪を懺悔しろと言うのだ。
この男の心は、一体何でできているのだろう。どうしてここまで残酷になれるのか。
彼と神谷家の力をもってすれば、吉川柔香が殺された真相を突き止めることなど造作もないはずだ。それなのに彼は彼女を信じようとせず、調べようとすらしない。
動こうとしない彼女を見て、神谷洲の忍耐が限界に達した。
「それとも、今すぐお前の母親の治療を打ち切ってやろうか」
「……行く」
相沢栞は静かに目を閉じた。
母親のためなら、どんな屈辱にだって耐えてみせる。
そのあまりにも従順な姿を見ても、神谷洲の胸に快感は微塵も湧かなかった。それどころか、理由の分からない苛立ちが込み上げてくる。
「覚えておけ。一晩だ」
「一分一秒でも足りなければ、お前の母親に倍にして償わせる」
