第3章
墓地。
大粒の雨が打ちつけ、相沢栞の全身をずぶ濡れにしていた。
薄っぺらい黒の喪服姿のまま、吉川柔香の真新しい墓碑の前に真っ直ぐ跪いている。墓碑の写真の中で吉川柔香は無邪気に笑い、対照的に相沢栞の顔には血の気が一切なかった。
冷たい雨水が毛先を伝い落ち、彼女の身体から最後の体温を奪っていく。
胃の中を無数の針で掻き回されるような、鋭い痛みが波のように押し寄せ、意識が遠のきそうになる。
少し離れたところに、黒のベントレーが静かに停まっていた。下りた車窓から、神谷洲の冷徹な横顔が覗く。
指先には煙草が挟まれ、薄暗い車内で猩紅の火が明滅している。
時間が一分、また一分と過ぎるにつれ、相沢栞の意識は霞み、感覚も次第に麻痺していった。
寒い。痛い。もう、限界だ。
「ぶっ——」
生臭い甘さが突如として喉に込み上げ、抑えきれずに鮮血を吐き出した。暗赤色の血痕が地面に散るが、それもすぐに雨に洗い流されていく。
車内で、神谷洲はわずかに眉をひそめたが、最後まで動こうとはしなかった。
自業自得だ。彼女が柔香に負わせた代償なのだから――そう自分に言い聞かせる。
相沢栞の身体がぐらりと揺れ、ついに堪えきれず泥水の中へ崩れ落ちた。
意識が途切れる最後の瞬間、母の優しい笑顔が見えた気がした。
「お母さん……」
再び目を覚ますと、看護師が点滴を替えているところだった。その口調は呆れを含んでいる。
「起きた? よくやるわね。胃がこんな状態なのに雨に打たれるなんて、死にたいの?」
胃……?
相沢栞は身体を支えて起き上がり、掠れた声で尋ねた。
「私、どうなったんですか?」
「自分で分からないの?」看護師は横目で彼女を見た。「急性胃出血。もう少し運ばれるのが遅かったら、神様でも救えなかったわよ」
看護師が出ていくと、年配の医師が検査報告書を手に病室へ入ってきた。彼女を見るその眼差しには、複雑な同情が入り混じっている。
「はっきり伝えておかなければならない。検査結果を見る限り、状況は極めて良くない」
「暫定的な診断だが……胃がんの末期だ」
ゴロゴロ――!
窓の外を稲妻が引き裂き、相沢栞の紙のように白い顔を照らし出した。
胃がん、末期。
頭の中が真っ白になり、耳の奥で耳鳴りが響き、何も聞こえなくなる。
どうして……。
彼女はまだ二十四歳だ。
医師はため息をつき、言葉を継いだ。
「もちろん、これはあくまで暫定だ。さらに生検を行って確定させる必要がある。だが……覚悟はしておいてほしい」
そう言い残し、医師は看護師を連れて病室を後にした。
相沢栞の脳裏に、神谷洲の冷酷な顔が浮かび上がる。彼女は自嘲気味に笑みをこぼした。
胃がんの末期だと診断されたその瞬間から、心の中にあった神谷洲への執着めいた愛も、一緒に死に絶えたような気がした。
生きなければ。
命を繋いで待っている、母のために。
金が要る。大金が。母の手術費、そして自分自身のこれからの治療費。
神谷洲が出してくれるはずがない。自分に頼るしかないのだ。
だが今の彼女には何もない。身に覚えのない汚名まで着せられ、一体何ができるというのか。
ひとつの考えが、不意に脳裏を掠めた。
絵だ。
彼女には絵の才能が残っている。それが、掴める唯一の藁だった。
手元に残ったわずかな金で、病院の近くに安いワンルームを借り、安物の画材と中古のスマートフォンを買い揃えた。
配信アカウントを登録し、宣伝も前振りもなく、そのまま配信を開始する。
カメラをキャンバスに向け、筆を取った瞬間――あの卑屈で怯えていた相沢栞は消え去った。
手は驚くほどブレず、色彩の使い方は大胆かつ調和が取れている。わずか三十分足らずで、生命力にあふれた向日葵の畑がキャンバスの上に咲き誇った。
その鮮やかな黄色は、すべての陰りや苦痛を払いのけてくれるかのようだ。
配信の視聴者は最初こそまばらだったが、やがて彼女の驚異的な画力に惹きつけられ、徐々に人数が増えていく。
【この色と光、やばい。配信者、美大の教授?】
【見てるだけで気分が明るくなる! これ売ってくれませんか? 五千出します!】
【五千とか失礼すぎ。このレベルなら最低でも五万からだろ!】
コメント欄を見て、相沢栞の胸に微かな希望が灯る。彼女は筆を走らせる速度を上げた。まるで、命の光と熱をすべて筆先に注ぎ込むかのように。
配信を終える頃には同時視聴者が千人を超え、何人もの客から高値で絵を買い取りたいとダイレクトメッセージが届いていた。
稼げる。母を救える。その希望が見えた。
だが、その希望はわずか一日しか続かなかった。
翌日、再び配信を始めたとき、異変が起きた。
配信枠に大量のアンチが雪崩れ込み、最も悪毒な言葉で彼女を罵り始めたのだ。
【盗作犬! この構図、明らかに吉川柔香先生のパクリだろ!】
【死人のアイデア盗んで金稼ぐとか、どういう神経してんの?】
相沢栞は言葉を失った。
吉川柔香も向日葵を描いていた?
まったく記憶にない。
弁明する間もなく、配信プラットフォームから公式の警告がポップアップした。
【警告:配信内容が権利侵害の疑いにより強制終了されました】
直後、プラットフォーム側から電話がかかってきた。「盗作による悪質な影響」を理由にアカウントの永久停止処分を下すだけでなく、違約金として一千万を請求するという通告だった。
一千万。
相沢栞はスマートフォンを握りしめたまま、全身が氷のように冷え切っていくのを感じた。
金を稼ぐどころか、巨額の負債を背負わされてしまった。
――神谷洲だ。
これほど短時間で、彼女の最後の希望を徹底的に叩き潰せる力を持つ人間は、彼しかいない。
最後の逃げ道すら、彼は塞ごうというのか。
絶望が、再び彼女を呑み込んだ。
そのとき、着信音が鳴った。見知らぬ番号からだ。
麻痺したように電話に出ると、向こうから冷ややかな女の声が聞こえてきた。
「こちら病院の会計窓口です。お母様の口座残高が不足しております。二十四時間以内に手術費用をお支払いください」
「でなければ、すべての治療を停止いたします」
