第4章

金がない。

母の治療が止められてしまう。

神谷洲に逃げ場のないところまで追い詰められ、息をつく隙すら与えられない。

相沢栞は安物の中古スマホを握りしめ、指先は氷のように冷え切っていた。

誰に頼ればいいというのか。この街は神谷洲が支配している。彼に逆らえる者などいるはずがない。

追い詰められた末、彼女は暗記している番号へ電話をかけた。

長い呼び出しのあと、ようやく繋がった。向こうは静かで、男の規則正しい呼吸だけが聞こえる。

「神谷洲……」栞は口を開いた。「母の……病院が治療を止めるって……お願い」

言葉は喉に引っかかり、それでも絞り出した。

「何でもするから。母は無関係なの」

小さな嗤いが返ってくる。

「身の程を弁えろ、相沢栞」神谷洲の声は凍てついていた。「俺が外出を許したか?」

「自分で別荘に戻れ。俺の我慢には限りがある」

そう言って、一方的に電話を切った。

彼女はツーツーという通話終了音を聞きながら、胃の奥にあの馴染みのある激痛が再び湧き上がるのを感じた。

戻れと言う。彼女を囚えるあの檻へ。そしてまた、彼女を痛めつけるために。

だが、彼女に選択肢はない。

……

神谷家の別荘に戻ると、リビングは眩しいほど明るかった。神谷洲はソファに座り、長い脚を組んで、くつろいだ様子だった。

足音がしても、瞼すら上げない。

栞は玄関で立ち尽くした。

「こっちへ来い」ようやく彼が口を開く。

栞は硬直した脚を引きずるようにして、彼の前へ歩み寄った。

神谷洲が目を上げ、露骨な軽蔑と品定めの視線を向けた。

「金がないのか」

栞は唇を噛み、頷いた。

「いいだろう」彼は立ち上がり、彼女の前に立つ。その大きな影が栞を完全に覆い隠した。「脱げ」

たった一文字が、平手打ちのように栞の頬を叩いた。

頭が真っ白になる。血が頭に上り、次の瞬間には一気に引いていった。

「私を……何だと思ってるの」

「娼婦だ」神谷洲は残酷なほど直接的に吐き捨てる。「一回百万。母親の手術代には足りるだろう」

栞の身体が震え始めた。寒さからではない。骨まで染みる屈辱からだ。

神谷洲の、端正だが冷酷な顔を見つめる。

彼の中で自分は、人としてすら扱われていないのだ。

動かない彼女を見て、神谷洲の目が冷える。

「嫌か? なら出て行け。母親が死ぬのを見てろ」

「……脱ぐ」

栞は目を閉じた。

震える手を上げ、ボタンをひとつずつ外していく。

コート、セーター、シャツ……。

服が冷たい床へ落ちるたび、剥がれ落ちていくのは尊厳だった。

神谷洲はただ見ていた。芝居でも楽しむかのような目で。そこに欲望はなく、愉しげな冷淡さだけがあった。

最後の下着一枚になったとき、彼が不意に一歩詰め寄り、彼女を冷たいソファへ突き倒した。

栞は反射的に目を閉じ、嵐が来るのを待った。

だが、予想した暴力は来ない。

頭上から降ってきたのは、神谷洲の冷笑だけだった。

「……本当に脱いだのか?」

「相沢栞。そんな汚い姿で、俺が触ると思ったか」

見下ろす目には嫌悪が浮かんでいる。

そこへ書類が顔に叩きつけられた。紙の端が頬を掠め、小さく痛む。

「これに署名しろ」

栞は書類を拾い上げ、灯りの下でその文字を読んだ――自白書。

嫉妬から吉川柔香の誘拐と殺害を企てた経緯が詳細に「記録」され、偽造されたチャット履歴や送金証憑まで添えられている。

完成された、隙のない証拠の鎖。

署名すれば、殺人の罪が確定する。

「署名なんかしない!」栞は自白書を床へ叩きつけた。「全部嘘よ!」

署名したら人生が終わる。終身刑だ。

そうなれば、母はどうなる?

「お前に拒否権はない」神谷洲はしゃがみ込み、書類を拾うと、皺を丁寧に伸ばした。「母親の命。それと、配信サイトへの違約金。よく考えろ」

また脅しだ。

彼はいつも、彼女が一番守りたいものを盾にして従わせようとする。

栞は全身の力が抜け落ち、ソファに崩れ、絶望とともに天花板の豪奢なシャンデリアを見つめた。

眩しい光。なのに、彼女の暗い人生には少しも差し込んでこない。

長い沈黙の末、彼女はようやく自分の声を取り戻した。

「……署名する」

「でも、母を治して」

神谷洲は鼻で嗤った。

「条件を出せる立場か?」

栞の目が一瞬で赤くなる。胸が激しく上下し、抑え込んだ怒りと憎しみが彼女を呑み込みそうだった。

「神谷洲……!」

「救ってほしいなら、それでもいい」彼はその反応に満足したように、ゆったりと条件を出した。「署名して、自首しろ」

栞は笑った。惨めで、乾いた笑いだった。

ペンを取り、書類の末尾に自分の名を書いた。

一画一画が、残されたすべての力を振り絞るようだった。

その名を記すことは、自らの手で死刑宣告を下すのと同じだった。

ペンを置き、顔を上げて神谷洲を見る。その瞳は恐ろしいほど空洞だった。

「いつか、本当の犯人が私じゃないと分かったら……」声は弱いが、奇妙なほど静かだった。「神谷洲、あなた、後悔するわ」

「その日は来ない」神谷洲は書類を回収し、顔色ひとつ変えずに言った。

彼は携帯を取り出し、新谷岩へ電話をかけた。

「病院に伝えろ。最良の医師を手配して、相沢夫人の手術を」

通話を切ると、今度は別の番号へかける。

「警察か。殺人犯が自首する」

まもなく、サイレンの音が近づいてきた。

冷たい手錠が、栞の細い手首を締める。

彼女は抵抗しなかった。魂を抜かれた人形のように、警察に連行されていった。

……

留置所での毎日は、闇そのものだった。

一分一秒が身を削るような苦痛だった。

どれほどの時が過ぎたのか。栞はついに、裁判の日を迎えた。

護送車に乗せられ、裁判所へ向かう。

車窓の向こうで、街の高層ビル群が飛ぶように後ろへ流れていく。

交差点で赤信号のため停車したとき、栞が何気なく窓の外へ目をやると、その全身が凍りついた。

裁判所の向かいの歩道に、見慣れた姿があった。

母だ。

病衣を着たまま、顔は紙のように白い。風が吹けば倒れてしまいそうなほど痩せ細っている。

心臓のバイパス手術を終えたばかりで、病院で安静にしているはずなのに。

だが今、母は地面に跪いていた。

神谷洲と、上品に着飾った中年の女の前で。

その女を、栞は知っている。吉川柔香の母、吉川秀美だ。

母は頭を深く垂れ、肩を震わせていた。泣きながら、懇願しているのだ。

「お願いです、私の栞を許して……あの子はわざとじゃないんです……」

塵のように卑屈なその姿が、栞の胸を焼き焦がした。

青信号になり、護送車がゆっくりと動き出す。

栞は窓に張りつき、必死に後ろを振り返った。涙が視界を歪ませる。

神谷洲が表情ひとつ変えず、跪く母を見下ろしているのが見えた。

そして吉川秀美の口元には、微かな、勝ち誇ったような笑みが浮かんでいた。

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