第6章
ある日、賭けで負けて機嫌の悪い坂本が房へ戻ると、相沢栞が隅で、拾った木炭で床に何か描いていた。
向日葵。簡単な線なのに、しぶとい生命力があった。
「絵だと? ふざけやがって!」
坂本はそれを踏み潰し、粉々にした。胸の内に燻っていた苛立ちが、ようやく捌け口を見つけたのだ。
「何見てんだ。舐めるみたいに拭け!」
相沢栞は顔を上げた。かつて水のように澄んでいた瞳は、いまや死水のように静まり返っている。
動かない。
その無言の反抗が、坂本を徹底的に激昂させた。
「調子乗ってんじゃない!」
坂本は怒鳴り、傍らにあった冷水の入ったバケツを頭から浴びせた。
氷のように冷たい水が、薄い囚衣を一瞬で濡らす。相沢栞はビクッと身を竦ませ、全身の震えが止まらなくなった。
「跪け! 拭け! 終わるまで飯は無しだ!」
汚れた雑巾が足元へ投げられた。
胃が痛くて意識が飛びそうだ。
相沢栞は歯を食いしばり、床に手をついて立とうとする。
だが弱りきった身体は言うことを聞かず、何度試しても徒労に終わった。
彼女は冷たい床に跪いた。寒気が膝から全身の骨の髄まで入り込んでくる。
必死に堪え、少しずつ床を拭く。その動きは機械のように麻痺していた。
三十分が過ぎ、唇は凍えて紫に変わっている。
それでも背筋だけは、真っ直ぐに伸びていた。
骨に刻まれた矜持が、牢にあっても決して屈しない。
その折れない姿が、坂本の怒りをさらに煽った。
人殺しのくせに。夫に捨てられた女のくせに。なぜそんな目をする。
彼女は歩み寄り、相沢栞の背中を蹴りつけた。
「伏せろ!」
相沢栞は前へ倒れ込み、額がコンクリに打ちつけられた。鈍い音が響く。
胃の痛みが爆ぜ、視界が暗くなる。
坂本はまだ気が済まず、髪を掴み、何度も床へ叩きつけた。
「ガンッ!」
「ガンッ!」
「死んだふりか? 今日は殺してやる!」
拳と足が雨のように降る。相沢栞は抵抗せず、ただ本能で腹を守った。
痛い……。
お母さん……。
意識が薄れ、世界が闇へ落ちる。
次に目を開けたのは、強い消毒液の匂いの中だった。
白い天井、白いシーツ。
刑務所の医務室だ。
医師が診察し、横に看守が立っている。
「どうだ」看守が訊く。
医師は眉を寄せ、深刻な面持ちで答えた。
「最悪です。重度の栄養失調に、胃の……古い病。寒さと暴行で急性の大出血を起こしています。あと少し遅れたら死んでました」
「治るか」
「ここじゃ止血が限界です。彼女の状態なら、外の大病院で検査と治療が必要です。でないと……」
医師は首を振り、言葉を濁したが、意味は明白だった。
看守は困り顔で言った。
「それは……上に指示を仰がないと」
そう言って看守は脇へ寄り、電話をかけた。
相沢栞の瞼は重く、開けようとしても全く力が入らない。
看守が電話で状況を報告しているのが聞こえる。声は低く抑えられていた。
「……ええ、神谷さんが言ってた件の……状態が深刻で、医師が外部受診を……」
神谷さん……。
神谷洲だ。
相沢栞の心臓が縮み、呼吸が止まった。
彼女は耳を澄ませ、全身の力を振り絞って電話の向こうの声を拾おうとする。
看守がスピーカーにしたのか、受話器から男の冷たく聞き慣れた声が漏れ聞こえた。ノイズ越しでも、少しの温度もない氷のような声。
『外部受診は不要だ』
少し間を置き、残酷なほど平静に付け加える。
『中で死なせなければいい』
その一言が、氷の刃となって相沢栞の心臓を抉り、えぐり回す。
死ぬことすら許さない。
犬みたいに生かして、この暗い牢獄で苦しめ、辱めて、来る日も来る日も。
彼がこのゲームに飽きるまで。
ふふ……。
相沢栞は心の中で音のない惨めな笑いを漏らした。一滴の涙が目尻を伝い、髪に吸い込まれる。
神谷洲――あなたは、どこまでも残酷だ。
誇り、骨気、尊厳。彼女を支えていたすべてが、完全に抜け落ちた。
彼女は「賢く」なることを覚えた。
坂本の足洗いの水を運び。
房の便器を磨き。
配られた薄い食事は、自ら進んで坂本の前に差し出し、引きつった笑みを作る。
「坂本さん、先にどうぞ」
坂本は彼女の頬を軽く叩く。ペットをあやすような手つきだ。
「分かってんじゃん」
誰も彼女をわざわざ責めなくなった。
彼女は透明な影になり、刑務所の隅で静かに生き、働き、食べ、眠る。
胃が痛むときは毛布の隅を強く噛み、声を殺した。
絵を描きたいとは、もう思わない。
この手は粗仕事のためだけにあり、爪の隙間は常に汚れて、関節は太くなった。
――それでいい。
彼女は麻痺した頭で思う。
折られる心配がない。
ただ三年を耐える。
外へ出たら母を探し、捨てられた子を探し、残り少ない時間で一緒に生きる。
そうして二年が過ぎた。
二年は、人の目の光を完全に殺すには十分だった。
ある日の午後。放風が終わってうつむき加減で戻る途中、二人の看守が突然彼女の前に立った。無表情だ。
「相沢栞。来い」
説明はない。拒否も許されない。
相沢栞の心は沈んだが、何も問わず、従順に後をついていった。
誰もいない取調室に連れて行かれ、黒い布で目隠しをされた。
突然の闇に、身体が強張る。
「何を……」
返事はない。
両腕を掴まれ、取調室を出て長い距離を歩かされる。空気の匂いが刑務所特有の消毒液から、外の冷たい空気に変わり、次に車内の革の匂いがした。
車に押し込まれる。
車は長く、揺れもなく走り続け、最後に停まった。
降ろされると、足元は厚く柔らかな絨毯だった。
空気には冷たい高級な木香が漂っている。今の彼女が嗅ぐべき匂いではない。
冷たい手が、手首の拘束を外した。
次の瞬間、背中を押される。数歩よろめき、床へ倒れ込んだ。
背後で扉が閉まる。
