第7章
静寂の中、自分自身の心音だけがうるさく響く。早鐘のように、激しく、けたたましく。
「……誰?」
果てしない闇に向かって問う声が震える。
返ってきたのは足音だった。
ゆっくりと、一定のリズムで部屋の反対側から近づいてくる。その一歩一歩が、彼女の心臓を踏みつけるようだった。
男は彼女の目の前まで来ると、立ち止まった。
相沢栞は、その長身が落とす強い圧迫感を感じ取った。漂ってくるのは、冷たさを帯びた濃密な香り。そこに微かな煙草の匂いが混じっている。
とても懐かしいのに、すぐには思い出せない。
薄い繭のある手が、彼女の頬に触れた。
相沢栞は火傷でもしたかのように、咄嗟に身を引く。
男が鼻で嗤った。愉悦と悪意がたっぷりと滲む声。
それ以上は近づいてこなかったが、目に見えない威圧感が彼女の全身をすっぽりと包み込んでいる。
相沢栞は床にうずくまり、両腕で自分の身体を抱きしめた。
男は腰をかがめ、乱暴に彼女を抱き上げると、大きなベッドへ放り投げた。
信じられないほど柔らかなマットレス。なのに相沢栞には、焼けた鉄板の上にいるように思えた。
叫びたい。抵抗したい。だが喉に綿を詰め込まれたように塞がり、声が出ない。
長引く栄養失調と病魔のせいで、身体には指先を動かす力すら残っていなかった。
目隠しの黒い布が、片手で乱暴に剥ぎ取られる。
部屋の明かりは消えたまま。カーテンの隙間から漏れる微かな月明かりが、男の曖昧な輪郭を浮かび上がらせている。
顔はよく見えない。
男はただ見下ろしていた。命のない玩具でも眺めるような眼差しで。
相沢栞は泣いた。
声もなく、大粒の涙が目尻から滑り落ち、シーツに染みを作っていく。
怖いからではない。絶望だからだ。
底だと思った場所の下に、まだ深い地獄があった。
男はその涙を見て満足したのか、唇の端に温度のない笑みを浮かべた。
……
気を失った時刻は分からない。
次に意識を取り戻したのは、鼻を突く消毒液の匂いによってだった。
監房の硬い寝台の上に横たわっていた。清潔な囚人服。身体の奥の裂けるような痛みと屈辱以外、すべてが悪夢のようだった。
彼女は跳ね起き、トイレへ駆け込み、蛇口を捻って冷水で何度も何度も身体を洗った。
見知らぬ男の匂いを洗い流したい。皮膚にこびりついた汚らわしい記憶を削り落としたい。
冷たい水が蒼白な肌を打ち据える。だが洗えば洗うほど、自分が汚れていく気がした。
「うっ……」
胃が激しく波打ち、壁に手をついて嘔吐した。何も出ないのに吐き気は止まらず、最後は黄色い胆汁だけが込み上げる。
人生が、完全に終わった。
……
翌朝、空が白み始めた頃に監房の扉が開いた。
看守が戸口に立ち、彼女の番号を読み上げる。
「0713、出ろ」
相沢栞は麻痺したように立ち上がった。また新たな拷問が始まるのだと思った。
だが看守は古い服を投げてよこした。
「着替えろ。出られるぞ」
相沢栞は呆然とし、すぐには反応できなかった。
「……え?」
「うるさい。誰かが仮釈放の手続きをしたんだ」看守は苛立たしげに急かす。「早くしろ!」
監獄の門を押し出される。
二年ぶりの外の世界。陽光が眩しすぎて目が開かない。
茫然と立ち尽くし、どこへ行けばいいのかも分からなかった。
そこへ、黒いマイバッハが音もなく滑り込んできた。
後部座席の窓がゆっくりと下りる。
そこに現れたのは、骨に刻まれた顔。そして今、彼女を氷穴へ突き落とす顔。
神谷洲だ。
仕立てのいい高級スーツを着こなし、淡々と相沢栞を見つめる。まるで無関係な他人を見るような目だった。
「乗れ」
彼が口を開く。その声は二年前と同じく、人の温もりなど微塵もない。
たった一言の命令。温度は皆無だった。
相沢栞はその場に立ち尽くした。両足を釘で打ち付けられたように動けない。
ひとつの地獄から這い出たばかりの彼女を、彼は自らの手でもうひとつの地獄へ突き戻そうとしている。
「お母さんを探しに行く」
彼女は言った。長く人とまともに話していなかったため、声は干からびて掠れていた。
神谷洲の眉間に、微かな苛立ちが走る。
彼はそれ以上何も言わなかった。ただ視線で合図するだけで、車から二人の黒服が降りてきて相沢栞の両側に立ち、無言で「どうぞ」と圧をかけてきた。
声なき威圧は、どんな言葉よりも脅威だった。
選ぶ権利などない。
最初から、一度も。
相沢栞は半ば強引にマイバッハの後部座席へ押し込まれた。
「バン!」と扉が閉まり、外の光が遮断される。退路も完全に断たれた。
車は滑らかに走り出す。向かう先は、かつて家だと思っていた場所――豪奢な檻である神谷家の別荘だ。
別荘の中は二年前と何も変わっていなかった。広く、冷たく、人の気配がない。
「洗ってこい」
神谷洲はジャケットのボタンを外し、ソファへ無造作に投げ捨てながら、顔も上げずに命じた。
相沢栞の身体が強張る。
洗ってこい?
まるで泥のついた品物のように。主人に疎まれ、綺麗に洗ってから弄ばれる玩具のように。
彼女は動かず、ただ彼を見つめた。
神谷洲がようやく目を上げ、彼女を捉える。品定めをするような、冷ややかな視線。
「人語が分からないのか?」
相沢栞は黙って背を向け、二階の浴室へ向かった。
シャワーから熱い湯が降り注ぎ、温かな湯気が立ち込める。
浴室の外のハンガーには、用意された服が掛かっていた。
黒いシルクのキャミソール。蝉の羽のように薄く、太腿の途中までしか隠れないほど短い。
相沢栞は鏡の中の自分を見つめた。
二年に及ぶ日の当たらない牢獄生活で、彼女は別人のように痩せこけていた。蒼白な皮膚の下に、骨の形がくっきりと浮き出ている。
そのキャミソールを着ると、余計に身体の細さが際立った。大人の服をこっそり着た子供のように空々しく、病的なほどの儚さが漂っている。
彼女が出ていくと、神谷洲はソファに座り、赤ワインのグラスを手に寛いでいた。
足音を聞きつけ、彼が顔を上げる。
視線が彼女の身体を撫でるように数秒留まる。それはまさに、商品を査定する目だった。
「随分と痩せたな」彼が口を開く。感情の読めない声。「中の飯が口に合わなかったらしい」
すぐさま、彼は軽く嗤った。隠そうともしない悪意を孕んで。
「だが、お前のような悪辣な女にはお似合いの末路だ」
言い終えるや否や、彼はグラスを置き、立ち上がって近づいてくる。
相沢栞は無意識に後退したが、背中が冷たい壁にぶつかり、逃げ場を失った。
神谷洲の大きな影が、彼女を完全に覆い尽くす。
彼が手を伸ばす。抱擁ではない。彼女のキャミソールの肩紐を、直接掴んだのだ。
「ビリッ」
脆いシルクの生地が音を立てて裂けた。
相沢栞の身体が跳ね、屈辱感が一瞬にして四肢を駆け巡る。腕で庇おうとしたが、手首をあっさりと掴まれ、背中へ捩じ上げられた。
「神谷洲!」彼女はついに理性を失って叫んだ。「私を何だと思ってるの! 汚いって言うくせに、どうして触るの!」
神谷洲は顔を寄せ、唇が耳に触れるほどの距離で、低い声で囁いた。
「当然だろう。最低の、誰でも抱ける娼婦だ」
