第1章
東京の秋雨が、音もなく銀座の街並みを濡らしていく。人々は足早に行き交い、差し出された傘が色とりどりの花のように咲いていた。
不意に携帯が震え、修からのメッセージが届く。
『今日、少し帰りが遅くなるかもしれない。急用ができてしまって』
早子は画面を見つめ、口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。
その「急用」が、中島優子と彼女の息子のことであるのは分かっている。修がはっきり口にすることはなくても、自分は馬鹿ではないのだから。
『気にしないで。待ってるから』
彼女はそう返信した。
早子はとある宝飾店のショーウィンドウの前で足を止め、自分の結婚指輪とほとんど同じデザインのペアリングに目を落とす。
左手の薬指にはめられた指輪をそっと撫でた。三年前、藤原修が厳かにこの指にはめてくれ、「永遠に君を守る」と誓ってくれたものだ。
あの頃の修の瞳には自分しか映っておらず、まるで世界のすべてが自分のために存在しているかのようだった。
早子は今でも、修が音楽学院の門の前で待っていてくれた光景を覚えている。ある初春の午後、彼は白いヒヤシンスの花束を手に、桜の雨の中で微笑んでいた。
温かく、魅力的だった。
傘の縁から雨粒が滑り落ちる。早子は『約束』という名のアプリを開いた。
画面には『89』というシンプルな数字が表示されている。画面をそっとスライドさせると、一つ一つの記録に日付と短い説明が添えられていた。
『六月十二日、残業のため、映画の約束を果たせず』
『七月二十四日、緊急会議のため、音楽会に行けず』
『八月十九日、友人に急用ができたため、週末旅行をキャンセル』
『八月三十一日、中島光が熱を出したため、同僚との集まりに参加できず』
このアプリを使い始めたのは、結婚して二年目のことだった。修が初めて中島優子のことで約束を破った時だ。
腹が立ったが、修もわざとではないのだろう、きっと今回だけだろうと思い直した。
彼に一度はチャンスをあげなければ。
そう思っていたのに、二度目、三度目と続いた。
譲歩を重ねた末、彼女はこのアプリをダウンロードすることにした。十回までと自分に言い聞かせ、十回になったらもう二度と修を許さないと決めた。
しかし、十回がまた十回と重なっていった。
そして、この数字になった。
89。
早子はため息をつき、携帯をバッグに戻した。今日は九月九日、彼女の誕生日であり、藤原修との結婚記念日でもある。
幼い頃、両親に孤児院へ預けられたのも、まさにこの日だった。
「必ず迎えに来るから」と父は言ったが、二度と現れることはなかった。後に彼女はこの日を、自分の新たな始まりを意味する誕生日とした。
当時の記憶と痛みはもう曖昧だが、見捨てられたという感覚だけは影のように付きまとっている。
忘れることなど、到底できなかった。
だからこそ、自分はこれほどまでに約束を重んじ、再び見捨てられることを恐れるのだろう。
修は彼女の過去を知っていて、溢れるほどの幸せで古い傷を覆ってやるとさえ誓ってくれた。
だが皮肉にも、それほど時が経たないうちに、現実はその約束の顛末を早子に突きつけた。
この日は「待つこと」と「失望」が結びつく運命なのだと、受け入れざるを得なかった。
幸せも、愛もない。
そんなことを忘れようと努め、彼女はスーパーへと足を向けた。
スーパーで早子は、ステーキ肉、新鮮な野菜、赤ワインのボトルと、食材を丹念に選んでいく。
わさびだけは、わざと避けた。
去年の誕生日ディナーで、修が買ってきた寿司にわさびが混入しており、ひどいアレルギー反応を起こした彼女は、薬を飲んでその特別な夜を過ごす羽目になったのだ。
今年は、この特別な日のために完璧な夕食を用意しようと、早子は自らキッチンに立つことを決めた。
もしかしたら、もう一つサプライズがあるかもしれない。
彼女の手は無意識に下腹部を撫でていた。そこには、小さな命が宿っている。
もう二ヶ月になる。この秘密は、修を含め、まだ誰にも話していない。
会計の際、レジ係が優しく尋ねてきた。
「何か特別な催しでもされるんですか?」
「今日は私の誕生日で、私たちの結婚記念日なんです」
早子は微笑んで答えた。その口調には、わずかな期待が滲んでいた。
「まあ、素敵ですね!お誕生日おめでとうございます。ご結婚記念日もおめでとうございます」
レジ係は心から祝福してくれた。
「ありがとうございます」
早子は礼儀正しく頷き、食材の詰まった袋を受け取った。
家に帰ると、彼女は食材を一つずつキッチンのカウンターに並べ、夕食の準備を始めた。
静かな部屋に、野菜を切る包丁の音だけがやけにクリアに響く。早子は一つ一つの食材を、まるで人生の出来事を一つ一つ処理するように――真剣に、そして丹念に扱った。
音楽学院では、彼女は最も生徒に人気のある教師の一人だった。彼女のバイオリンの授業は、いつも予約で満席だった。
修と出会ってからは、演奏会や教える仕事も徐々に減らし、より多くの時間と精力を家庭に注いできた。
国際的な舞台で演奏するという夢を抱いていたこともあったが、愛と結婚のために、彼女は進んで妥協したのだ。
そして、その献身は相応の対価となって返ってくると、純粋に信じていた。
ステーキ肉を寝かせている間、早子はそっと自分のお腹を撫でた。妊娠するのはこれで二度目だった。一度目は、修の不注意で流産してしまった。
あの時、彼は妊婦検診に付き添うと約束してくれたのに、急用で約束を破り、彼女は寒い冬の日に三時間も一人で待たされた。結局、一人で電車に乗って帰ることにしたが、その途中で不意に転倒し、まだ三ヶ月だった胎児を失ってしまったのだ。
「今度は、きっと大丈夫」
早子は腹の中の小さな命に、まるで自分自身に言い聞かせるように優しく囁いた。
今夜、修にこのことを打ち明けようと決めていた。この新しい命が、彼に二人の関係を見つめ直し、この家庭を改めて大切に思うきっかけになるかもしれない。
壁の時計に目をやり、それから携帯に目を落とす――新しいメッセージはない。窓の外では相変わらず雨が降り続き、チクタクと窓を叩いている。それはまるで、時の歩みのように、ゆっくりと、しかし確実に前へ進んでいた。
早子はダイニングの明かりをつけ、二人分の食器を並べ、キャンドルに火を灯した。そしてキッチンに戻り、今夜の料理を始める準備をする。
この雨が降り続く九月の夜に、藤原早子は一縷の希望と期待を胸に、九十回目になるかもしれない失望、あるいは、奇跡の訪れを待っていた。






