第2章
早子は最後の一本となるキャンドルをそっと燭台に立て、心を込めて整えたテーブルを満足げに眺めた。
白いテーブルクロスの上には、磨き上げられた二組のカトラリーが整然と並び、ワイングラスがキャンドルの灯りを映して、温かな琥珀色の輝きを放っている。
彼女はオーディオに手を伸ばし、再生ボタンを押した。モーツァルトのセレナーデが、部屋の空気を優しく満たしていく。
これは、二人が結婚式で初めて踊った曲だ。この旋律を耳にするたび、修の腕に抱かれてくるくると回った、あの幸福な眩暈を思い出す。あの頃、彼の瞳には自分しか映っていなかった。
腕時計に目を落とす。そろそろ修が帰ってくる時間だ。彼女は引き出しから、心を込めて用意した一枚のカードを取り出した。そこには、彼女と修、そして小さな赤ちゃんの、拙いながらも温かいイラストが描かれている。
言葉で伝えるよりも先に、修自身の目で気づいてほしかった。
「今夜こそ、きっと何かが変わる」
そう自分に言い聞かせ、早子はわずかに膨らんだお腹を慈しむように撫でた。
その時、携帯の着信音が静寂を破った。ディスプレイに灯る『修』の名を見て、早子の口元に期待の笑みが浮かぶ。
「修?もうすぐ家に着く?」
『早子、すまない……』電話の向こうから聞こえてきたのは、疲労と焦燥が滲む声だった。『中島さんが急性胃腸炎で倒れて、病院に運ばれたんだ。光くんの面倒を見ないと。あの子、一人で怖がってる』
早子の手は、携帯を握り潰さんばかりに強く握りしめられ、指の関節が白く浮き上がった。
まただ。彼はまた、中島優子と光を選んだ。
彼女は深く息を吸い込み、声が震えるのを必死で抑えた。
「今日は九月九日よ。この日が何の日か、覚えてる?」
電話の向こうに、一瞬の沈黙が落ちる。
『……俺たちの結婚記念日だろ。わかってる。ごめん、早子、本当に申し訳ない。明日は必ず埋め合わせをするから。それでいいだろ?』
彼は、今日が彼女の誕生日でもあることを、綺麗に忘れていた。三年目にして、初めて。
「……わかったわ」
早子は囁くように言った。その声は、甘美なはずのセレナーデにかき消され、ほとんど音にならなかった。
その瞬間、電話の向こうから、幼い子供の声がはっきりと聞こえてきた。
『お父さん、お腹痛い……』
ずしり、と。早子の心臓に、鉛の重りが沈み込んだ。
電話の向こうの少年は、修を親しげに「お父さん」と呼び、そして修は、それを咎めなかった。
『光、すぐ行くからな!』修は焦ったように応え、それから電話口で慌ただしく言った。『早子、切るぞ。また明日、いいな?』
無機質な通話終了の音が響き、早子はその場に呆然と立ち尽くす。携帯が手から滑り落ち、音もなく柔らかな絨毯に着地した。
モーツァルトのセレナーデは、まだ続いている。かつては甘い思い出に満ちていた旋律が、今はひどく耳障りで、まるで彼女の人生そのものが間違いだったと嘲笑っているかのようだ。
彼女はゆっくりとテーブルに歩み寄り、燃え盛る二本のキャンドルを見つめた。炎が、潤んだ視界の中で歪んで揺らめいている。
三年前の今日、修は皆の祝福の中で誓ったのだ。一生をかけて君を幸せにすると。
あの頃の修は、彼女の好き嫌いをすべて覚えていた。彼女の食べ物にわさびを入れることなど決してなかったし、バラよりも紫のヒヤシンスが好きだということも知っていた。特別な日にはいつも、彼女のためにささやかな驚きを用意してくれた。あんなにも、思いやりに満ちていたのに。
「いつから、変わってしまったの……?」
早子は自分に小さく問いかけ、ふっと息を吹きかけてキャンドルの火を消した。
部屋が、闇に沈む。
彼女は黙って余分な食器を片付け、出番を失った食材を冷蔵庫に戻していく。それから、三人の家族が描かれたカードを手に取り、まだ見ぬ我が子を表す小さな絵を、そっと指でなぞった。
「ごめんね、赤ちゃん。どうやら今日は、お父さんに伝える日じゃなかったみたい」
そう囁き、カードを引き出しの一番奥へとしまい込んだ。
早子は窓辺に寄り、雨に滲む街の灯りを眺める。携帯を取り出し、見慣れたアプリを開いた。指は『+1』のボタンの上を彷徨うが、どうしても押すことができない。
どうしてだろう。今夜の約束の反故は、これまでのどの時よりも深く胸に突き刺さった。
訂正されなかった、あの「お父さん」という一言のせいか。
彼女の誕生日を、彼が完全に忘れていたせいか。
それとも、このお腹の中にいる、罪のない命のせいか。
九十。
九十回目の失望が積み重なった時、自分はどうなるのだろう。
その時こそ、もう二度と、彼を許さない。
彼女は感情のない人形じゃない。心は、もうとっくに限界を超えて、悲鳴を上げていた。






