第3章

 早子はピアノの前に座っていた。その細く長い指がそっと鍵盤に触れると、ショパンの『雨だれの前奏曲』が、がらんとした部屋にゆっくりと流れ出す。単調に繰り返される左手の和音が、まるで心臓の鼓動のように重く響いた。

 かつて、修の瞳には確固たる光が宿っていた。彼は言った。「この一つ一つの音符が、君への約束だ、早子。一生かけて君を守るよ」

 音楽が、ぷつりと途切れる。早子は力なく鍵盤から指を離し、乾いた笑みを浮かべた。そんな誓いの言葉も、今となってはあまりにも空々しく、皮肉に響くだけだ。

 すべてが変わってしまったのは、一年前。中島優子が六歳の息子、光を連れて東京に戻ってきた、あの日からだった。海外で夫のDVに遭い離婚した彼女は、人生をやり直したいのだと涙ながらに訴えた。

 大学の先輩として、修は「俺が助ける」と自ら申し出た。最初は時折アドバイスをする程度だったが、それはやがて頻繁な付き添いや世話へと変わっていった。

 修はこう説明した。「中島さんはDVのトラウマで精神的に不安定なんだ。それに光くんも病気がちで、誰かが見てやる必要がある。昔の先輩として、僕ができるだけのことをしてやりたいだけなんだ」

 早子は、彼の言葉を信じようとした。あの日、偶然にも修の携帯のメッセージを見てしまうまでは。優子から送られてきたテキストには、はっきりとこう書かれていた。

 『光が今日もあなたのことを訊いてたわ。「お父さんはいつ来るの?」って。あなたが一番の頼りで、私たちの救世主だって。ありがとう、修。あなたって……本当に、ずるいくらい優しいのね』

 メッセージには一枚の写真が添えられていた。修が優子と光を両腕で抱きしめ、三人は遊園地のゲートの前で、まるで本当の家族のように晴れやかに笑っていた。

 その瞬間、早子の心は氷の海に突き落とされた。彼女は修を問い詰めることなく、ただ黙って『約束』という名のアプリをダウンロードした。そして、修が中島母子のために二人の関係を犠牲にするたび、その一つ一つを記録し始めた。

 最初の記録は、簡潔なものだった。

 『結婚一周年記念の旅行をキャンセル。中島さんの家探しに付き合う』

 指先が再び鍵盤に落ちる。『雨だれの前奏曲』が、部屋に響き渡る。一つ一つの音符が、冷たい雨だれのように早子の心に打ちつけられ、冷たく、そして重く沈んでいく。

 その時、腹の底を抉るような激痛が早子を襲った。彼女は「うっ…」と呻き、鍵盤に突っ伏すように身を屈める。ピアノの音は不協和音を最後に途絶え、代わりに彼女の苦しげな喘ぎが静寂を切り裂いた。

 「いや、そんな……」

 震える声で呟き、医師から警告されていた初期妊娠のリスクを思い出す。切迫流産――その言葉が、頭の中で警鐘のように鳴り響いた。

 早子は喘ぎながら、必死に立ち上がろうとする。だが、視界がぐらりと揺れ、立っていられない。ピアノに凭れてなんとか体を支え、ふと足元に目を落とした時、彼女は息を呑んだ。

 血の染みが、淡い色のスカートをじわりと赤く染めていた。

 恐怖が、冷たい潮のように足元から這い上がってくる。彼女は手探りでスマートフォンを掴むと、震える指で救急通報の番号をダイヤルした。

 「もしもし、救急車を……お願いします……妊娠、二ヶ月で……今、ひどく出血していて……」声は恐怖に上ずり、まともに言葉にならない。

 電話の向こうから、オペレーターが緊急連絡先を尋ねてきた。

 早子は一瞬ためらい、修のではなく、妹の名前と電話番号を告げた。

 「ご主人は? ご連絡しなくてよろしいですか?」オペレーターが気遣わしげに尋ねる。

 「彼は……電話に出ないんです」

 早子は苦々しく答えた。それはもう、彼女にとって慣れきった事実だった。

 電話を切った後、早子はピアノの傍らにずるずると崩れ落ち、両手で腹部をきつく抱きしめた。そうすれば、この儚い命を繋ぎ止められるのではないかと、愚かにも願って。

 しかし、どれだけ足掻いても、体の中から大切なものが流れ出ていく感覚は止まらない。

 視界が滲み、涙が音もなく頬を伝った。

 救急車のサイレンが遠くから聞こえ、次第に近づいてくる。早子は意識を保とうと努めたが、痛みと失血で体は鉛のように重くなっていく。

 意識が遠のく直前、数時間前に修へ送ったメッセージを思い出した。

 『大事な話があるの。今日じゃなくてもいいから、少しだけ時間をください』

 修からの返信は、やはり短かった。

 『ごめん、今夜は光が熱を出したから、病院に付き添わないと。話はまた明日にしてもいいかな?』

 早子は返信しなかった。ただ『約束』のアプリを開き、ためらっていた指を『+1』のボタンの上でしばし彷徨わせた後、ついに、それをタップした。

 画面の数字が『89』から『90』に変わる。

 救急隊が駆けつけた時、早子は半ば意識を失っていた。隊員たちの緊迫した声が、水の中にいるように遠くに聞こえる。担架に乗せられ、運び込まれるその瞬間、彼女はぼんやりと思った。

 これが、運命が自分に与えた答えなのかもしれない、と。

 九十回目の、諦め。

 すべての苦しみは、これで終わる。

 終わらせなければ、ならない。

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