第1章
はっと息を飲み、ベッドから跳ね起きた。聖女学院の純白の制服が、冷や汗で肌に張り付いている。
金の簪で心臓を貫かれた、あの灼けるような痛みがまだ生々しく胸に残っていた。無意識に胸元へ手を当てるが、そこにあるのは平坦な生地の感触だけ。見渡せば、そこは慣れ親しんだ寮の一室だった。柔らかな陽光を遮るベージュのカーテン、机の上に置かれた精巧なテーブルランプ、そして化粧台に飾られた、銀狐のブローチ。
「ご主人様、ご無事に転生なさいました!」
一筋の銀光が走り、小さな銀狐が私の目の前にふわりと姿を現した。その紫水晶のような瞳が、興奮にきらきらと輝いている。
「ミル?」
私の声は、自分でも分かるほど震えていた。
「本当に……戻ってきたの?」
「はい、ご主人様。ゲームシステムが二名の転生プレイヤーを検知いたしました。これは極めて稀なケースです」
ミルは空中でくるりと愛らしく一回転してみせた。
「あなたは今、三年前の『運命選択の舞踏会』の前夜に戻っておられます」
私は深く息を吸い込み、どうにか乱れた心を鎮めようと努めた。前世の記憶が、濁流のように脳内へと押し寄せてくる。姉のヴィクトリアはスターダスト騎士団のレインを選び、私は宮廷魔法師のエドモン・ヴィスに割り当てられた。そして最後には、絶望に狂ったヴィクトリアの手にかかり、命を落としたのだ。
「ミル、ゲームのルールは前と同じ?」
「『運命選択の舞踏会』での決定が、今後のメインストーリーを固定します。攻略対象は、慎重にお選びください」
ミルの声が、真剣な響きを帯びる。
「しかしご主人様、今のあなたには前世の記憶というアドバンテージがございます。これは、運命を変える絶好の機会です」
私はベッドから立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。聖女学院の鐘楼が、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。今夜こそが、私の、そしてこの世界の全てを決定づける舞踏会なのだ。
◇
夢のように華美なシャンデリアが煌めく舞踏会のホールで、私は簡素な濃紺のドレスをまとい、壁際の影にひっそりと佇んでいた。二人の攻略対象が、ホールの中心で腕を組んで立っているのが見える。
スターダスト騎士団の若き団長、レイン・スターダスト。銀青色の短髪に、深い海の青を湛えた瞳。その胸には、サファイアの騎士徽章が誇らしげに輝いている。
もう一人は、宮廷魔法師のエドモン・ヴィス。陽光を溶かしたような金色の長髪に、氷のように冷たい碧眼。銀縁の眼鏡が、その理知的な雰囲気を際立たせていた。
ゲームの筋書き通りならば、ローゼンベルク伯爵家の嫡女である姉のヴィクトリアに、優先選択権があるはずだ。
「リリアン、スターダスト家は前途有望ですわ。わたくしはいつもあなたを可愛がってきたもの。スターダスト騎士団との婚約は、あなたに譲ってさしあげますわ」
聞き慣れた声に振り返ると、ヴィクトリアがエドモン・ヴィスの水晶を手に、得意げな笑みを浮かべているのが見えた。
何ですって?
私は呆然と立ち尽くした。前世では、彼女は間違いなくレインを選んだはず。それが今、どうして……。
「ヴィクトリア! 婚約は遊びではありませんよ!」
伯爵夫人が、驚愕の表情で自らの娘を見つめている。
「お母様、ヴィス家は魔法の家系として由緒正しく、エドモン様は若くして将来有望な宮廷魔法師ですわ。この縁談は、ローゼンベルク家にとっても素晴らしいものになるはずです」
ヴィクトリアは母の耳元にそっと寄り添い、何事かを囁いた。
伯爵夫人の表情が、驚きから思案へ、そして最後には渋々といった諦観へと変わっていく。
「……良いでしょう。そういうことでしたら、お母様はあなたの意志を尊重いたします」
「ご主人様、ヴィクトリアも転生者であることが検知されました! 彼女は、当初の選択を変更しました!」
ミルの声が、警告の色を帯びて私の耳元で鋭く響いた。
ヴィクトリアの得意満面な表情を見て、私の心はすうっと冷えていった。彼女も、転生した。そして、私の前世の夫だったエドモンを、さも当然のように奪っていった。
となれば、私に残された選択肢はただ一つ……。
私はゆっくりとレイン・スターダストへと歩み寄り、迷うことなくそのサファイアの水晶を手に取った。
「わたくし、リリアン・デ・ローゼンベルクは、スターダスト騎士団との盟約を結ぶことを選択いたします」
レインは私を真っ直ぐに見つめ、その深い青の瞳に一瞬意外そうな色がよぎったが、すぐに力強く頷いた。
「俺、レイン・スターダストは、その契約を受け入れよう」
◇
婚約が確定してから数日後、私は父に書斎へと呼び出された。
「リリアン、スターダスト家は家柄も資産も申し分ない。お前の持参金は、さほど手厚くする必要はないだろう」
ローゼンベルク伯爵は、書類から一度も顔を上げずにそう言い放った。
「ヴィクトリアは魔法師に嫁ぐのだ。持参金として、より多くの魔法道具や稀覯書が必要になる」
私は静かにその言葉を聞いていたが、心に波は立たなかった。前世も、全く同じだった。ヴィクトリアは一族の資産の大部分を携えてスターダスト家に嫁ぎ、私は僅かな持参金と共にエドモンとの婚約を交わしたのだ。
「お父様のおっしゃる通りにいたします」
私は、平然とそう答えた。
「ご主人様、そんなの不公平です!」
ミルが私の心の中で、憤慨したように抗議の声を上げた。
「あなたの魔法の才能は、ヴィクトリアよりもずっと優れているというのに!」
私は心の中で、そっとミルをなだめた。前世ではスターダスト騎士団は全滅し、ヴィス家は栄達を極めた。ヴィクトリアは、エドモンを奪えば運命を変えられるとでも思っているのだろうか。あまりにも、考えが甘すぎる。
「スターダスト騎士団ルートは難易度が最も高いですが、パーフェクトエンドの報酬が最も豪華です。当初のシナリオが変更されたことを検知。新たな攻略ガイドを生成中です」
ミルが、高速でデータを分析しているのが伝わってくる。
私は前世の記憶を辿り、北境での戦と、スターダスト騎士団が壊滅した本当の理由について思いを巡らせた。もし私がスターダスト騎士団の運命を変えることができれば、このゲームの筋書きそのものを、根底から覆せるかもしれない。
夜が更け、私はベッドに横たわりながら、前世の出来事を一つ一つ思い出していた。
あの運命選択の舞踏会で、ヴィクトリアは傲然とレインを選び、エドモンの水晶を私に無造作に放り投げたのだ。
「庶子には、魔法師見習いくらいがお似合いですわ」
彼女はローゼンベルク家の資産の大部分を携えてスターダスト家に嫁ぎ、私は簡素な支度だけでエドモンとの婚約を済ませた。
「それはゲームが予め設定したシナリオの軌跡です。メインストーリーは、嫡女がスターダスト騎士団を選ぶよう誘導し、庶子は身分の低い魔法師に割り当てられるようにデザインされています」
ミルが淡々と説明する。
ヴィクトリアが婚礼を挙げたその日、レインは軍令を受け、魔族の侵攻を防ぐため北境へと赴いた。あの日、華麗なウェディングドレスを身にまとい、幸せそうな笑みを浮かべていたヴィクトリアの顔を、私は決して忘れない。
そして三ヶ月後、届いたのは悲報だった。スターダスト騎士団は全滅し、レインは戦死。ヴィクトリアは、若き未亡人となった。
時を同じくして、エドモン・ヴィスは希少な魔法の研究を完成させ、聖女学院に若き教授として招聘された。私の地位も、それに伴って飛躍的に向上した。
「ゲームの設定上、北境の戦は必発イベントですが、戦争の結末はプレイヤーの選択によって変更可能です」
ミルが、重要な情報を補足した。
レインの死後、ヴィクトリアは何度も婚約の解消を試み、スターダスト家からの離縁を要求した。
ベアトリス夫人――レイン・スターダストの祖母――はヴィクトリアの境遇に深く同情し、婚約解消を認めるよう提案してくださった。
だが、ローゼンベルク伯爵は跪いて罪を乞うた後、ヴィクトリアに密かに罰を下したのだ。
「ヴィクトリア! 死をもってしても、お前とスターダスト家の婚約を解消することはできぬのだ!」
最後のあの日、私は伯爵夫人の頼みでスターダスト邸にヴィクトリアを見舞った。ベアトリス夫人は私に格別親切で、ローゼンベルク伯爵が「伝統に固執しすぎる」と、婉曲に批判していたのを覚えている。
そして、エドモンが宮廷首席魔法師に叙されると知った時、ヴィクトリアは嫉妬と絶望に狂い、金の簪を私の心臓に突き刺したのだ。
「わたくしが幸せになれないのなら、あなただって幸せになんてさせない!」
狂気に歪んだ彼女の顔は、今も私の記憶に悪夢のように深く焼き付いている。
私は、静かに決意を固めた。今度こそ、全てを変えてみせる。
「前世で彼らが全滅したのは、補給が絶たれたことが原因だったわ。もし、私がそれを防ぐことができたら……」
私は、心の中で活路を探る。
「ご主人様は重要な情報を獲得しました! これは、隠しルート攻略の必須条件です!」
ミルが、興奮気味に可能性を分析している。
「従兄のソウル・キングが、帝国最大の魔法道具商会を管理しているのを思い出したわ。彼に連絡して、補給の支援を要請できれば……」
ゲームの筋書きは、私を悪役として配置した。けれど、騎士団全員を救ってはいけないなんて、ルールブックのどこにも書かれていない!
「ヴィクトリアの行動が、ご主人様の計画に妨害をもたらす可能性があります。ご主人様、どうかお気をつけください。スターダスト騎士団ルートは好感度の上限が最も高いですが、同時に最も危険なルートでもあります」
ミルが、私の耳元で注意を促した。
私は再びベッドから起き上がると、窓辺から聖女学院の夜景を見つめた。月光が古びた石段に降り注ぎ、全てが深い静寂に包まれている。だが、この静けさの向こうに、嵐が近づいていることを私は知っていた。
今度こそ、運命の采配をただ受け入れるつもりはない。ヴィクトリアは、エドモンを奪えば全てがうまくいくとでも思っているのだろうか。彼女は知らないのだ。エドモン・ヴィスには彼自身の秘密があり、スターダスト騎士団の壊滅には、また別の、もっと根深い原因があったことを。
「今度こそ、私が運命を書き換える」
私は、ミルに固く告げた。
銀狐はこくりと頷き、力強く応えた。
「ご主人様、ミルがずっとおそばにおります」








