第2章

聖女学院の鐘が、夜明けの空に厳かに鳴り響く。今日という日は、私と姉のヴィクトリアの婚約式が、同時に執り行われる日だ。

「ご主人様、ヴィクトリア様の悪役値が上昇を続けております」

ミルが私の肩にちょこんと乗り、心配そうに紫水晶の瞳をきらめかせた。

「伯爵夫人を説得してまで、わざわざ同じ日に式を挙げるなんて。良からぬことの前触れに違いありませんわ」

私は簡素な婚礼衣装の襟元を整えながら、ヴィクトリアの浅はかな意図を正確に理解していた。彼女は私を衆目の前で笑いものにし、嫡女と庶子である私たちの待遇がいかに違うかを、満天下に見せつけたいのだ。

「構わないわ」

鏡に映る自分を見つめ、私は唇を固く引き結んだ。

「彼女がそうすればするほど、かえって自分の底の浅さを露呈するだけのことよ」

ローゼンベルク家の屋敷の前には、二台の馬車がずらりと並んでいた。ヴィクトリアの馬車は豪奢な装飾が施され、それを引くのは純血種の白馬、車体には煌びやかな家紋と宝石が嵌め込まれている。対して私の馬車は、飾り気ひとつない質実剛健な造りで、基本的な防護魔法陣が施されているだけだった。

「リリアン、スターダスト邸は道のりが遠いから、あなたは先に出発なさい」

母である伯爵夫人の声には、あからさまにぞんざいな響きがあった。

両親に一礼した後、私は馬車に乗り込む。車内には数人の侍女が付き添っていたが、その雰囲気はどこか重苦しかった。

「リリアン様は、少しも緊張なさっていないご様子ですね?」

一人の侍女が、探るような目で私に尋ねてきた。

「緊張することなんて、あるかしら」

窓の外に流れる街並みを眺めながら、私はこれから訪れる決定的な瞬間に思いを巡らせる。

「運命が定めたことならば、ただ正面から受け止めるだけよ」

馬車が一時間ほど走った頃、遠くにスターダスト邸の高い塔が見えてきたところで、通信水晶がけたたましく鳴り響いた。御者が緊急停止すると、スターダスト家の従者が馬を駆って駆けつけてくる。

「リリアン様! 当主が緊急の用件でございます、直ちに広間へお越しください!」

馬車は急ぎスターダスト邸へと乗り入れ、私は侍女たちに導かれて車を降りた。出迎えてくれたのは、優雅な銀髪を揺らす貴婦人だった。彼女の深い青の瞳は、穏やかな笑みをたたえている。

「リリアン、わたくしはレインの叔母のフレイヤ・スターダストよ。こんなに慌ただしい中、お越しいただいてごめんなさいね」

彼女は優しく私の手を握る。

「レインが広間で待っているわ。どうやら、緊急の軍務が入ってしまったようなの」

私は頷いて会釈し、侍女たちに従って長い廊下を進んだ。スターダスト邸の装飾は簡素ながらも荘厳で、壁には歴代騎士団長の勇壮な肖像画が掲げられている。

婚約の間の重厚な扉がゆっくりと開かれ、私はそこに立つレイン・スターダストの姿を目にした。

彼は銀白色の騎士制服を身にまとい、肩章にはスターダスト家の青い宝石の徽章が嵌め込まれている。その深い青色の瞳は、まっすぐに私を見つめていた。

「リリアン」

彼は立ち上がって私に一礼する。その声は低く、心地よい磁性を帯びていた。

「こんな慌ただしいところを見せてしまって、すまない」

私も礼を返し、ゲームの中では勇猛果敢でありながらも、過酷な運命を辿ったこの騎士を改めて観察する。彼は私の記憶にある姿よりもさらに端正で、背は高くたくましい。その立ち居振る舞いの端々に、軍人らしい洗練された気品が滲み出ていた。

「魔族が北境で不穏な動きを見せている。軍令により、スターダスト騎士団は直ちに前線へ向かうことになった」

レインの表情は、厳しいものへと変わっていた。

「戦のせいで、我々の婚約式が遅れてしまう。君には、つらい思いをさせるな」

私の心臓が、速鐘を打ち始める。これこそが、前世でスターダスト騎士団が壊滅した、悲劇の始まりだ。

「レイン様、まずは侍女の方々をお下げください。あなたに申し上げねばならない、重要なお話がございます」

私は、必死に平静を保つよう努めた。

レインが手を振って侍女たちを下がらせると、広間には私たち二人だけが残された。

私は収納袋から、銀色の光を放つ防御のルーンを取り出した。昨夜、母が遺してくれた貴重な魔法素材で作り上げたものだ。

「私の使い魔であるミルが、ある夢を見ました」

私はレインの目を、真っ直ぐに見つめる。

「スターダスト騎士団は北境で魔族の待ち伏せに遭い、補給線を断たれる、と」

レインの瞳孔が、にわかに収縮した。

「具体的な軍情を知っているのか?」

彼の声に、鋭い警戒の色が混じる。

「その情報は、軍事機密のはずだ」

「詳しいことは存じません。ですが、ミルの予知はこれまで一度も外れたことがないのです」

私は両手でルーンを捧げ持ち、誠実に彼を見つめた。

「この防御のルーンは微力なものですが、どうかお守りとしてお持ちください」

レインはしばし沈黙し、その深い青の瞳で、私の顔を探るように見つめていた。やがて彼は手を伸ばし、そのルーンを静かに受け取った。

「忠告に感謝する。慎重に行動しよう」

その口調は、真剣で誠実な響きを帯びていた。

「リリアン、君は俺が想像していたよりも……特別な人だな」

頬が微かに熱くなるのを感じ、私は慌てて俯いた。

レインはルーンを懐にしまうと、スターダスト家の婚約水晶を取り出した。

「リリアン・ローゼンベルク、君はスターダスト家と同盟を結び、俺の伴侶となってくれるか?」

「はい、喜んで」

私は手を伸ばし、その冷たい水晶に触れた。

温かなエネルギーが指先から流れ込み、一筋の光が私たちの魔法核を繋ぐ。婚約が、正式に成立したのだ。

「君の祝福を胸に出征し、必ず無事に帰ってくる」

レインは、優しく私を見つめる。

「スターダスト邸で、安心して待っていてくれ」

レインが慌ただしく去っていくその背中を見送りながら、私の胸中は万感の思いに満たされていた。

ゲーム本来のシナリオ通りに進むのであれば、私は何もしなければよかった。歴史は定められた軌道を進み、レインは北境で戦死し、スターダスト騎士団は全滅する。そして私は、この攻略ルートの『悲劇の結末』を、安全に完了できるのだ。

だが、ベアトリス様の穏やかな微笑みを思い出すたびに、私は祖父から聞いた昔話を思い起こしていた。

あれは私が五歳の時、祖父が重い病に倒れ、帝都の宮廷医師たちも匙を投げていた。その話を聞きつけたベアトリス様が自らお越しになり、高位の治癒魔法を施してくださったことで、祖父の命は救われたのだ。

「スターダスト家は代々国を守り、帝国の真の背骨なのよ」

叔母はスターダスト騎士団の事績を語るたび、その目に深い敬服の色を浮かべていた。

「彼らは決して権力を私利私欲のために使わず、いつも一番危険な最前線に駆けつけるの」

ベアトリス様が白髪で黒髪を送るのを、見過ごすことなどできない。幼いルナが、心から慕う兄を失うことにも耐えられない。そして、忠勇なる騎士たちが補給不足で無駄死にすることなど、断じて容認できなかった。

彼らは皆、血の通った生身の人間なのだ。決して、ゲームのデータなどではない。

「ご主人様は、正しい選択をなさいました」

ミルが、私の耳元で優しく囁いた。

「スターダスト騎士団は、救う価値のある方々です」

私はあてがわれた自室に戻ると、叔母が亡くなる前に遺してくれた通信の符石を取り出した。これは帝国最大のキング商会と直接繋がる連絡手段であり、私が運命を変えるための、唯一無二の鍵となるものだ。

符石が微かな光を放ち、やがて祖父の穏やかな声が聞こえてきた。

「リリアンか? お前から商会に連絡してくるとは、どうしたのだ?」

「お祖父様、お力をお借りしたいのです」

私は深く息を吸い込んだ。

「最も信頼できる商人を、スターダスト邸へ派遣してください。重要な魔法道具の買い付けをお願いしたいのです」

「そ、そうか……わかった。明日にもソウルを向かわせよう。あの子はちょうど聖都で、魔法道具部を担当しておる」

翌日の午後、一台の簡素で実用的な商隊の馬車が、スターダスト邸の門前に静かに停まった。

車から降りてきたのは、一人の若い男性だった。赤みがかった茶色の短髪に、誠実そうな琥珀色の瞳。上質だが、華美ではない仕立ての商人の服を身に着けている。彼は私を見るとわずかに目を見張り、それから恭しく一礼した。

「ソウル・キングと申します。祖父の命により、参上いたしました」

「どうぞ、こちらへ」

私は彼を応接室へと案内し、腰を下ろさせた。

「婚約おめでとう、リリアン」

ソウルの口調は、心からのものだった。

「祖父から、魔法道具の買い付け依頼があると聞いたよ。スターダスト家とは、うちの商会も昔から懇意にさせてもらっている」

私は侍女を下がらせると、真剣な眼差しでソウルを見つめた。

「ソウル、あなたに正直にお話ししなければならないことがあります」

前世の記憶が、突如として鮮明に蘇る……。

あれはエドモン・ヴィスと婚約して三年目のこと。彼の研究が行き詰まり、家計は日増しに苦しくなっていった。ある日、私の侍女がいくつかの宝飾品を質に入れに行ったところ、従兄であるソウルに見つかってしまったのだ。

翌日、ソウルは魔法金貨を手に訪ねてきた。『収集価値のある』宝飾品を買い取りたいと言って、実際には私とエドモンを援助しようとしてくれたのだ。しかし、姑であるヴィス夫人はそれに激怒し、ヴィス家への侮辱だと見なした。

「私たちヴィス家がお金に困っているとでも? あなたたちキング商会も、あまりに無礼ですこと!」

私は当時、ヴィス家の面子を保つため、心ならずも従兄の温かい助けを断ってしまった。

ヴィス夫人はその後も怒りが収まらず、高価な磁器のティーカップを床に叩きつけ、その破片が私の額を傷つけた。彼女はさらに私憤を晴らすため、私に一晩中家事をさせ、一切の休息を許さなかった。

「リリアンが外聞の悪いことをしてくれたわ! この災厄の星め!」

その夜、私は冷たい石畳の上で跪き、床を磨きながら、額の傷の疼きに耐えていた。窓の外の月を見上げ、私は初めて、ここから逃げ出したいという強い思いを抱いたのだった。

現実へと意識を戻し、私は目の前のソウルを見つめる。心は、申し訳なさでいっぱいだった。前世の私はあまりに弱く、差し伸べられた肉親の温もりを取りこぼしてしまった。

「従兄様、スターダスト騎士団の運命を変えるために、あなたの力を貸してほしいのです」

私は立ち上がり、鄭重に彼へ頭を下げた。

「北境での戦が、間もなく始まります。騎士団には、十分な補給が必要です」

ソウルは驚いたように私を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。

「リリアン、正当な商取引である限り、キング商会は全力で支援するよ」

彼の瞳には、温かい理解の光が宿っていた。

「それに、スターダスト家は商会にとって大のお得意様だ。特にベアトリス様は、貴族の身分を笠に着るような方じゃないからね」

私は、両手を固く握りしめる。胸の内に、これまでにない熱い決意が込み上げてきた。

今度こそ、私は二度と機会を逃さない。二度と、悲劇を繰り返させはしない。

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