第1話 裏切り
また、土曜日がやってきた。九歳の息子が土埃にまみれてボールを追いかける姿を、ただ二時間、観覧席から眺めるだけ。そんな、いつもと何も変わらないはずの土曜日。
トヨタのランドクルーザーをT市ユースサッカー場の駐車場に滑り込ませた。片手に持ったスターバックスのカップが傾かないよう気をつけながらバックミラーを覗くと、後部座席で水野健太が興奮のあまり飛び跳ねているのが見えた。
せめてもの救いは、これで夫である水野大輔と顔を合わせずに済む時間ができることだろうか。最近の私たちは、同じ家に住んでいながら、まるで他人同士のようにすれ違うばかりだったから。
「ママ、練習が終わったら新しいスパイク買ってくれる?」
私がまだ車をパーキングに入れ終えてもいないのに、健太は待ちきれないとばかりにシートベルトを外した。
「そうね、今日の頑張りを見てから考えましょう」
車が完全に停止するやいなや、健太はドアを開けてチームメイトの方へと全力で駆け出していく。どんなに疲れ果てた日でも、あの無邪気な後ろ姿には不思議と心が励まされる。
目の前には、見慣れた光景が広がっていた。見せびらかすようにずらりと並んだベンツやトヨタ。ルルレモンのウェアに身を包み、コーヒーカップを片手におしゃべりに興じる母親たち。応援の合間にも、スマートフォンから片時も目を離さない父親たち。これぞT市の、きらびやかな郊外の日常そのものだ。
「美由紀さん!」
観覧席から、真由が手を振っている。その声は、この場所に集う母親たちが皆使う、あの独特の明るく弾むような調子を帯びていた。
「いいわねえ、大輔さん、ちゃんと練習に顔を出してくれるなんて。うちの旦那なんて、いっつも『会社に缶詰』よ」
彼女はそう言って、大げさに肩をすくめてみせた。
「ええ、まあ、なんとか時間を作ってくれたみたい」
本当は、山崎法律事務所のパートナーとして多忙を極める中、大輔が健太のために時間を作ってくれることを誇りに思っていた。特に最近は、大きな案件を抱えているらしく、ひどくストレスを溜めているようだったから。
冷たいアルミ製の観覧席に腰を下ろし、子供たちのウォームアップを眺める。その時だった。サイドラインに立つ大輔の姿が、ふと目に入ったのは。彼が親しげに話し込んでいる相手は、小野七海だった。私がアシスタントコーチとして採用されるよう、個人的に推薦した若い女性だ。
二人の間に流れる空気に、私は思わず息を呑んだ。小野七海は体のラインを強調するタイトなアスレチックウェアを身につけている。大輔は話すたびにぐっと身を乗り出し、何度も彼女の肩に馴れ馴れしく触れていた。あまりにも、近すぎる。
あの、彼女を見る目つき……。
やめなさい、美由紀。あなたの大輔が、そんなことをするはずがないじゃない。
私は無理やり意識を健太の背中に戻した。半年前、初めて小野七海に会ったときのことを思い出す。
——可哀想に、たった一人で幼い千夏ちゃんを育てているなんて……。
私がこのコーチ職を紹介してあげられたときは、心から安堵し、誇らしくさえ思ったのだ。彼女はうちのキッチンで、生活の苦しさを語りながら涙を流していた。私がリーグ事務局に電話をかけ、彼女の人柄を保証し、自ら申込書を届けに行った。
練習は、ランニングドリルやシュート練習で瞬く間に過ぎていった。子供たちがぞろぞろとロッカールームへ向かう中、健太がこちらに叫ぶ。
「ママ、隼人と一緒にトイレ行ってくる!」
「わかったわ!」
車に向かって半分ほど歩いたところで、健太がベンチに水筒を置き忘れてきたことに気がついた。帰り道で喉が渇いてしまうだろう。
私はため息をつき、グラウンド脇の用具室の方へと引き返した。近づくにつれて、中から湿り気を帯びた奇妙な音が聞こえてくる。ベンチが軋むリズミカルな音。それに重なる、荒い息遣い。そして、堪えきれないように漏れる、微かな嬌声。
……いったい、何?
ドアは、ほんの少しだけ開いていた。ドアノブに手をかけたまま、私はその場で凍り付く。聞こえてくる音の意味を、脳が必死に理解しようと空回りしていた。
その時、低く息を切らした大輔の声が、はっきりと聞こえてしまった。
「ああ、七海……最高だ……」
そして、切迫した彼女のかすれた声が続く。
「大輔さん……だめ……ここでは……」
「誰も戻ってこない。俺たちだけだ」
いや。いや、そんなはず、ない。
心臓が肋骨を突き破らんばかりに、激しく脈打っていた。踵を返して、何も聞かなかったことにして、車の中で息子を待ちたい。そう思うのに、足がコンクリートに縫い付けられたように動かなかった。
震える指で、ほんのわずかにドアを押し開ける。そして、隙間から中を覗き込んでしまった。
瞬間、私の世界からすべての音が消えた。
私の夫が——結婚して十三年になる私の夫が、私がこの仕事に就けるよう手を貸してやった女と、体を重ねていた。
大輔は用具室のベンチに小野七海を押しつけ、二人とも半裸だった。彼の指は彼女の艶やかな黒髪に絡みつき、獣のような形相で腰を激しく動かしている。彼女の脚は彼の腰にしっかりと回され、快感に溺れて頭をのけぞらせていた。
嘘だ。こんなの、現実のはずがない。
けれど、それは紛れもない現実だった。彼女の腰を貪るように掴む彼の手つき。それに慣れた様子で応える彼女の肢体。何もかもが、これが初めてではないことを雄弁に物語っていた。
足の感覚が、すうっと消えていく。手からスターバックスのカップが滑り落ち、コンクリートの床に叩きつけられてけたたましい音と共に砕け散った。
「何なのよ、これっ!?」
大輔はベンチから転げ落ちんばかりの勢いで七海から飛びのくと、狼狽しながらズボンを引き上げた。
「美由紀! こ、これは、その、説明できるんだ——」
「説明? 何を説明するっていうの? 私が雇ってあげた女と、こんな場所で交わっていたことを説明するつもり?」
「違うんだ、君が見たままじゃない!」
「そう? 私には、自分が骨を折ってやった相手と夫が浮気してるようにしか見えないけど!」
七海はスポーツブラを直そうとみっともなく身もだえしながら、羞恥に顔を真っ赤に染めている。
「美由紀さん、ごめんなさい、私、こんなつもりじゃ——」
「やめて。何も言わないで」
私の声は、抑えきれない怒りで震えていた。
「私がこの仕事を見つけてあげたのよ。リーグに推薦したのも私。大事な息子を、あなたに預けていたのに!」
「ただ、そうなってしまっただけで、計画したわけじゃ——」
「『そうなってしまった』、ですって?」
吐き捨てるような声が出た。
「何? まさか、足でも滑らせて、偶然夫のアソコにでも着地したとでも言うつもり?」








