第56章

「拭きなさい」

 静まり返った部屋に、彼の低い声が唐突に響いた。

 姫野理緒の背中が強張る。振り返りもせず、受け取ろうともしない。

 月城曜はハンカチを差し出したまま、彼女が動かないのを見て聞こえていないのかと思い、さらに一歩踏み込んだ。その拍子に、指先が不意に彼女の手の甲に触れた。

 氷のように冷たい感触だった。

 肌が触れ合った瞬間、電流が走ったかのように二人の体が震えた。

 姫野理緒は火傷でもしたかのように素早く身を引き、彼との距離を取った。

「月城さん」

 彼女の声は平坦で、何の感情も籠もっていない。

「誤解されているようですが、今のは目にゴミが入っただけです。それ...

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