第五章
夜の帳が下り、月が冴え渡る。星影は疎らだ。
都心の一等地に佇むそのレストランは、至る所に贅沢な趣向が凝らされていた。
小さなアシスタントが橘詩織の背後にぴったりとつき、憂いを帯びた表情で問いかける。
「橘社長、本当にこうしなければなりませんか?」
昨夜の深夜、彼女はリゾートプロジェクトの協力会社を接待するというメッセージを受け取ったばかりだ。
ビジネスにおける会食など、場所を変えた交渉に過ぎない。
「クライアントを接待して商談するのは、通常のプロセスよ」
橘詩織はオーダーメイドのスーツに身を包み、長い髪を上品にまとめ上げている。その姿は有能そのもので、彼女はアシスタントに安心させるような眼差しを向けた。
アシスタントが心配しているのは、商談の成否ではない。今、橘詩織と西園寺玲央の夫婦関係破綻の噂が再燃しており、以前にも増して騒がれているのだ……。
名門同士の婚姻において最も重視されるのは体面だ。このタイミングでの接待は、火に油を注ぐようなものである。
だが上司の家庭の事情であり、深く詮索するわけにもいかない。彼女は大人しく頷くしかなかった。
「予約した個室は5階の306号室です。お客様はあと十分ほどで到着されます……」
アシスタントが時間を確認しようと下を向いた時、橘詩織が不意に足を止めたことに気づかず、背中にぶつかりそうになった。
「どうしました?」
橘詩織の視線を追うと、なんと西園寺玲央と鉢合わせしていた。
「詩織さん!? どうしてここに?」
白川亜希は燃えるような真紅のロングドレスを纏い、体のラインを強調していた。彼女は目の前で西園寺玲央の腕に両手を絡ませ、わざとらしく体を揺らすと、胸元の白肌が微かに震えた。
橘詩織を見て驚いた表情を見せた後、ハッとしたように口元を押さえ、意味ありげに西園寺玲央を見た。
「まさか……わざわざ追いかけてきたの?」
「俺に会いに来たのか?」
西園寺玲央は眉を上げ、以前のように怒ることもなく、彼女が反省したのだと思ったようだった。
橘詩織は眉をひそめた。この女がいる時といない時で見せる西園寺玲央の二面性にはもううんざりだ。ここで彼らと関わって時間を無駄にしたくない。
「用事があるの。そこをどいて」
「詩織さん! 用事なんてあるわけないじゃない。レオはここにいるのよ」
白川亜希はそう簡単に彼女を逃がすつもりはないらしく、腕を掴んできた。
橘詩織は無事に立ち去るのが不可能だと悟り、アシスタントに目配せをして先に個室へ行き時間を稼ぐよう指示した。
「あなた……まさかまだ拗ねてるの?」
白川亜希はそう言いながら、不機嫌そうな西園寺玲央をちらりと見て、瞳の奥に意地悪な喜びを光らせた。
「考えすぎよ。あの夜は私が酔っ払って具合が悪くなったからレオに電話したの。彼は本当にただ介抱しに来てくれただけなんだから」
女は瞬きをし、無邪気を装って説明しているが、その実、挑発的な意味合いが強い。
ほら、あなたの夫は、私の電話一本で深夜に駆けつけて介抱してくれるのよ。
「白川さんは人望がないようね」
橘詩織は冷ややかに白川亜希を見つめた。その口調には同情が混じっている。
それは皮肉よりも屈辱的だった。
「何ですって?」
白川亜希は何を言われたのか理解できていないようだった。
「だってそうでしょ? 友達もいない、具合が悪くても薬も買えない、病院の場所も知らない。だから家庭のある男性に助けを求めて来てもらうしかないんでしょう」
橘詩織は淡々と言い放った。その澄んだ冷たい瞳と対峙し、白川亜希は一瞬呆気にとられた後、羞恥と怒りで顔を歪めた。橘詩織は鼻で笑った。
「詩織さん、レオにもっと構って欲しかったのね」
白川亜希の怒りはすぐに青ざめた顔色へと変わり、西園寺玲央の方を向くと、か弱く可哀想な表情を作り、引きつった笑みを浮かべた。
「じゃあ、これは詩織さんに返すわ」
彼女は指から巨大なサファイアの指輪を外した。橘詩織の不審そうな視線に気づき、説明する。
「これ、レオの手作りなの。きっと気に入るわ」
5カラットの宝石が彫刻入りの台座に嵌め込まれ、廊下の黄色い照明の下で煌めき、美しい輝きを放っている。
その光は橘詩織の目を深く突き刺した。彼女はかつて何度も西園寺玲央に、結婚記念日には手作りの指輪が欲しいと言っていたことを思い出した。
愛する人が手作りした指輪を身につけ、何気なく触れる時、それはまるで愛する人の頬に触れているかのようで、離れていてもその温もりを感じられると思っていたからだ。
橘詩織は思いもしなかった。彼女が昼も夜も想い描いていたその温もりが、他人の手にあるなんて。
胸の奥に無数の痛みが走り、西園寺玲央が反応する前に、彼女は白川亜希を突き飛ばして背を向けた。
「きゃっ!」
白川亜希は悲鳴を上げ、勢いよく西園寺玲央の胸に倒れ込んだ。
「危ない!」
「詩織さんを責めないで。私が不注意で転んだだけだから」
西園寺玲央に誤解させまいとするかのように、白川亜希は伏し目がちに小さな声で言い、瞳の奥の悔しさを隠した。
橘詩織は背後からの西園寺玲央の呼び声を無視し、個室のドアの前まで歩くと、深呼吸をして感情を整え、笑顔を作ってドアを開けた。
ビジネスの席には酒が付き物だ。
橘詩織は携帯の着信を無視し、酒宴が盛り上がった頃、酔いを覚ますという口実で化粧室へ向かった。
冷たい水が顔の火照りを洗い流し、大方酔いの覚めた橘詩織は化粧を直した。
化粧室を出て、廊下の奥にある窓辺で空気を吸う。余裕を持って振る舞ってはいるが、やはり酒席での腹の探り合いは好まない。疲れすぎる。
「やっぱり帰ってなかったのね」
白川亜希が追いかけてきて待ち構えていたかのように、ゆっくりと橘詩織に近づいてきた。西園寺玲央がいない今、彼女は橘詩織への悪意を隠そうともせず、目尻や眉の端々に軽蔑を滲ませている。
同じ女として、白川亜希は橘詩織のこの拙劣な手段をよく理解していた。悪意に満ちた口調で言う。
「西園寺玲央のそばに居座り続けるなんて、あなたにはそれくらいの能しかないのね」
橘詩織は軽く眉を上げた。挑発を受け、不思議そうに問い返した。
「私が彼と離婚したいとは思わないの? そうじゃなきゃ、あなたは本命になれないでしょう?」
「誰が本命になりたいって!?」
白川亜希がこの世で最も憎むのは、愛人と呼ばれることだ。橘家の後ろ盾がなければ、橘詩織など自分の足元にも及ばないくせに!
自分に説教する資格などあるものか。
「違うの? じゃあどうして西園寺玲央に結婚したいって直接言わないで、私の前で存在感をアピールするわけ?」
「このアマ!」
何かのスイッチが入ったのか、白川亜希は橘詩織に平手打ちを食らわせようと飛びかかってきたが、橘詩織は素早くその手首を掴んだ。
橘詩織は先ほど相手にするのが面倒だっただけで、やられっ放しでいるつもりはない。
「何をしているんだ?」
橘詩織が口を開く前に、背後から聞き慣れた声がした。
西園寺玲央の視線は、橘詩織が白川亜希の手首を強く掴んでいる箇所に釘付けになり、思わず眉をひそめた。
「レオ!」
白川亜希の瞳が暗くなり、振り返った時にはすでにか弱く無力な可哀想な姿に変わっていた。
