第六章

「私はただ、詩織さんに誤解してほしくなくて説明しようとしただけなの。まさか彼女がこんなに怒るなんて……」

白川亜希の瞳には涙が溜まり、長い睫毛が震えている。その姿はまるで菟絲子(ネナシカズラ)のように儚げで、橘詩織の目を見ることさえ恐れているようだった。

この演技力、女優にならないのが惜しいくらいだ。

「彼女を離せ」

西園寺玲央の顔色は悪く、橘詩織が動こうとしないのを見て、騒ぎを聞きつけて視線を向ける通行人たちに目をやった。

「公衆の面前で、何という様だ!」

彼は、私が西園寺家の恥さらしだと言いたいのだろうか。

「詩織さん、まずは離して。理由はどうあれ、私が先に謝るから、ね? 私たちのせいでレオを困らせないで」

白川亜希は物分かりが良く、屈辱を耐えてでも場を収めようとする健気な姿を装っている。事情を知らない人が見れば、きっと彼女に同情し、橘詩織を冷酷な女だと罵るだろう。

「いいわよ。じゃあ先に謝って」

橘詩織は冷ややかに言った。どうせ悪役のレッテルを貼られたのだ。彼女のこの苦心惨憺たる演技に見合うだけのことはさせてもらわなければ。

「私……」

白川亜希は西園寺玲央の前なら彼女も少しは自重すると思っていたが、まさか図に乗ってくるとは思わなかった。

心の中では十万回拒絶したが、男の心に良い印象を残せると思い直し、唇を噛んで口を開いた。

「ごめんなさい」

橘詩織は冷笑し、彼女の腕を振り払った。

女はよろめき、楊貴妃が酔ったような媚びたポーズで、再び西園寺玲央の胸に倒れ込もうとした。

だが今回は男にその気はなく、彼女の手を引いて自分の横に立たせただけだった。

「お前は待て。話がある」

橘詩織は彼らが仲睦まじくしているのを見て、個室で客が待っていることもあり、すれ違いざまに立ち去ろうとしたが、男に遮られた。

「どいて!」

何度も嵌められ、橘詩織の忍耐はとっくに尽きていた。

「レオ〜、腕が痛い」

白川亜希は西園寺玲央の注意が橘詩織に向いているのを見て、心の中で悪態をつきつつ、一計を案じて腕を押さえ、泣きそうな声で言った。

西園寺玲央の視線が彼女の赤くなった手首に落ちる。一瞬躊躇したが、やはり優しく慰めた。

「先に個室で休んで、店員に薬を持ってきてもらうといい。後で行くから」

「私が悪いの、私のせいで喧嘩しないで……」

白川亜希は二人に二人きりの時間を与えたくなかった。痩せた体は今にも倒れそうで、小さな声で言う。

「心配ない、戻りなさい」

西園寺玲央が小声で女をあやす姿を見て、橘詩織の瞳が微かに揺れた。言葉にできない感情と、ここ数日の疲労感が再び押し寄せてくる。

「分かったわ」

白川亜希は賢い女だ。引き際を知っている。彼女は名残惜しそうに西園寺玲央を何度か見つめ、ようやく重い足取りで背を向けた。

白川亜希の姿が廊下の突き当たりに消えるのを確認して初めて、西園寺玲央は橘詩織に向き直った。

照明の下、男の整った顔立ちが露わになり、橘詩織はその顔に浮かぶ薄情さをはっきりと見て取った。

「よく彼女一人に薬を塗らせる気になったわね? 追いかけて自分で手当てしてあげないの?」

橘詩織の顔に浮かぶ皮肉は、冷やかしよりも強烈だった。

彼が自分を置き去りにするのは初めてではない。今更善人ぶる必要がどこにある?

「これは俺たち二人の問題だ。彼女は無関係だぞ。お前はいつも彼女を目の敵にする」

西園寺玲央は眉をひそめ、最後には小さく溜息をついて言った。

「私が目の敵にしてる?」

橘詩織は怒りのあまり笑ってしまった。彼の責任転嫁の能力には感服する。

彼が白川亜希を帰らせたのは、自分を問い詰めるためだったのだ。

「違うのか? さっき廊下でも喧嘩腰だったし、彼女を突き飛ばしただろう。俺が間に合わなければ、殴るつもりだったんじゃないか?」

西園寺玲央は橘詩織の強硬な態度に呆れていた。

橘詩織は不意に反論する言葉を失った。彼は白川亜希を信じているから、彼女の度重なる挑発が見えないのだ。

「認めるのか?」

「離婚の目的が果たせないから、今度はこんな方法で俺の気を引こうとしているのか。俺は……」

彼女が黙り込んでいるのを見て、西園寺玲央は肯定したと受け取った。だが言葉の途中で遮られた。

「西園寺玲央!」

足元から無力感が這い上がり、四肢百骸に広がる。説明したくはなかったが、これ以上誤解されるのはもっと嫌だった。

「この近くに監視カメラがあるわ。録画を見に行くことをお勧めするわ」

「誰が悪いのか確認してきなさいよ。事情も知らずに決めつけないで」

「その言葉、そっくりそのまま白川亜希に言ってあげたら?」

橘詩織は口を開くと止まらなくなった。感情の捌け口を見つけたかのように、話せば話すほど怒りが込み上げてくる。

白い頬は紅潮し、春の泉のように澄んだ瞳には怒りが宿っている。彼女は歯を食いしばるようにして言った。

「自分の女をちゃんと管理して! 私の前でキャンキャン吠えさせないでよ!」

最後の一言を聞いて、西園寺玲央は明らかに何かを誤解したようだった。

まるで橘詩織の委屈(やるせなさ)を感じ取ったかのように、彼の口調が不意に柔らかくなった。

「分かった。今夜は時間を作って帰るから、もう拗ねるな」

「今日は排卵日だったはずだ」

その意味は明白すぎるほど明白だった。

橘詩織は牛に対して琴を弾いているような気分になった。この期に及んで、まだ自分が彼の子を産みたがっていると思っているなんて。彼女が家を出たことにさえ気づいていないのだ。

「あなたの子なんて産まない!! 私は離婚したいの、離婚! 聞こえた!?」

橘詩織の怒りは頂点に達した。もし手元に何かあれば、間違いなく地面に叩きつけて西園寺玲央に自分の態度を分からせていただろう。

「離婚だと騒ぐのは子供の問題が原因だろう!?」

「違う! 私はそもそも……」

公共の場で、橘詩織は危うく秘密を口走るところだった。自分が西園寺家の10%の株式になど興味がないことを彼に分からせるために。

西園寺玲央の顔色が瞬時に曇る。周囲の空気が凍りついたその時、彼の携帯が鳴り、二人の間の一触即発の空気を断ち切った。

「もしもし?」

「何だって? すぐに行く」

西園寺玲央は電話を切り、橘詩織の強情な顔を見て頭を抱えた。

「仕事で急用ができた。話は帰ってからだ」

西園寺玲央は橘詩織に口を挟む隙も与えず、慌ただしく去っていった。

距離が近かったため、橘詩織にははっきりと見えた。着信画面には白川亜希の名前があったことを。

仕事の急用なんて、全部嘘だ!

「社長! どうしたんですか?」

なかなか戻らない橘詩織を心配して探しに来た秘書が、廊下に一人佇む彼女を見つけた。光に長く引き伸ばされた影は孤独で寂しげで、魂が抜けたような顔をしている。秘書は駆け寄って彼女の体を支え、尋ねた。

「少し飲みすぎたみたい。大丈夫よ、戻りましょう」

個室の客のことを思い出し、橘詩織は軽く手を振って下手な言い訳をした。

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