第1章 心配しないで、誰にも傷つけさせない
相葉詩礼視点
アパートのドアが、壁に当たって跳ね返るほど激しい勢いで開け放たれた。夕食のために開けていたトマトソースの缶を、危うく落としそうになる。
ママがよろめきながら入ってくる。化粧は崩れ、安物のワインの匂いをぷんぷんさせていた。だが、一人ではない。
高そうなコートを着た男が、後から続いてきた。年は五十代くらいだろうか、銀髪をなでつけ、私に向けられた途端に胃がむかむかするような褐色の瞳をしていた。
「詩礼、見て!ママが誰を連れて帰ってきたか!」
ママはまるで彼が戦利品であるかのように手を振る。
「こちらは樋川夜様。樋川家の方で、私たちの面倒をよーっく見てくださるのよ!」
私は缶を置き、布巾で手を拭いた。
「こんにちは」
「やあ、こんにちは、詩礼ちゃん」
彼の声は滑らかだった。滑らかすぎた。
「お母さんから聞いているよ。君は良い子で、とても従順だとね」
その『従順』という言い方に、吐き気がした。私はコンロの方へ一歩下がる。
「ママ、もうお腹すいてない。宿題しなきゃ」
「失礼なこと言わないの!」
酔っているはずなのに、ママの声は急に鋭くなった。
「樋川様はお忙しい方なのよ。私たちのためにわざわざ時間を作ってくださったんだから」
樋川夜は微笑んだが、その目は冷たいままだった。
「十七歳か。良い年頃だ。俺の若い頃はな、娘というものは男が家族のために何をしてやれるか、そのありがたみを分かっていたものだよ」
彼は近づいてきて、まるで品物でも品定めするように私を眺めた。葉巻の煙と混じったコロンの匂いがする。
ママは電子レンジの扉に映る自分の顔を確かめるのに夢中で、何も気づく様子はない。
樋川夜は分厚い札束を取り出し、私たちのコーヒーテーブルの上に放り投げた。
「杏子さん、この部屋も少し手入れが必要だね。これを。何か良いものでも買いなさい」
ママの目が大きく見開かれる。震える手で札を数えながら、金に飛びつかんばかりの勢いだ。その顔が輝くのを見て、私の心は沈んだ。
「夜様、すごいわ!」
彼女はもう札をハンドバッグに突っ込んでいる。
「そうだわ、下にシャンパンを買いに行ってきましょうよ。お祝いしなくちゃ!」
「ママ、行かないで。外はすごく寒いよ」
「赤ん坊みたいなこと言わないの、詩礼。あなた、もう十七でしょ」
彼女はもうコートを羽織っている。
「夜様に優しくしなさい。感謝するってことを覚えるのよ」
ママの目には札束しか映っていない。私の気持ちなんて、どうでもいいのだ。でも、この男は……私を見るその視線が、肌を粟立たせる。
「どうぞ、杏子さん。ごゆっくり」
樋川夜の声が柔らかくなる。
「俺は詩礼ちゃんとおしゃべりでもしていたい。彼女のことをもっとよく知りたいのでね」
ママはもうドアから半身を乗り出している。
「待ってなくていいからね!」
ドアがバタンと閉まる。途端に、アパートが檻のように感じられた。
二人きりになった瞬間、樋川夜の化けの皮が剥がれた。丁寧な微笑みは消え、醜悪な何かが取って代わる。
「さあ、二人きりだな、お姫様」
樋川夜はネクタイを緩め、コートを脱ぎ捨てた。
「お前の母親は俺に多額の借金がある。だが、別の支払い方法で手を打ってやってもいい」
壁際に後ずさる。心臓が激しく脈打っていた。
「やめて……警察を呼ぶわ」
樋川夜は笑った。
「警察だと?お嬢ちゃん、B市の警官の半分は俺が飼ってるんだ。それに……」
彼は一歩近づく。
「母親が、あの札束よりお前を選ぶとでも思うか?」
その問いは、平手打ちのように私を打ちのめした。答えは、とっくにわかっていたからだ。
樋川夜が前のめりになり、私の手首を掴んだ。
「さあ、ママの言った通り、良い子にしな」
私の中で、何かがぷっつりと切れた。こんなこと、させてたまるか。
コーヒーテーブルの上にあった重いガラスの灰皿を掴み、力任せに彼の頭部へ振り下ろす。顔から血を流し、樋川夜は絶叫した。
「このクソアマが!」
どれほどの怪我を負わせたかなんて確かめもせず、私は走った。
階段を駆け下り、ロビーを抜け、凍てつくB市の夜へと飛び出す。薄いパジャマ一枚に素足のまま。冷気が拳のように体を打ちつけたが、私は走り続けた。肺が焼けつくように痛み、足がもつれて動かなくなるまで。
行き着いたのは、二つのビルの間の路地裏だった。両膝を抱え、歯の根が合わないほど激しく震える。家には帰れない。樋川夜がまだいるかもしれない。それに、もし彼がいなくても、ママに何て言えばいい?新しいパトロンが私をレイプしようとしたって?ママはきっと、せっかくの大儲けを台無しにした私を責めるだろう。
行くあてがない。電話する相手もいない。どうせ誰も、私のことなんて信じてくれない。
その時、足音が聞こえた。
影の中から一人の男が現れ、心臓が止まりそうになる。背が高く、十八か十九歳くらいだろうか。全身が血にまみれている。それも、生々しい血だ。彼が手にしている野球バットも、同じように赤く染まっていた。
男は私を見ると、凍りついた。
「クソッ」と彼は呟く。
「んな格好で、こんなとこで何してんだよ」
私は壁に身を押し付けた。
「こっちに来ないで」
だが、彼の行動は予想とは真逆だった。歩みを止め、それどころか一歩後ずさると、血の付いたバットを壁に立てかけた。
「おい、泣いてんのか」
声が少し優しくなる。
「何があった?」
彼はジャケットに手を突っ込み、くしゃくしゃのナプキンを何枚か取り出して差し出した。その手は傷だらけだったが、仕草は驚くほど優しかった。
「家に帰れないの」と私は囁いた。
「なんでだよ?」
涙越しに彼を見上げる。他人の血にまみれていても、この人は樋川夜より安全に感じられた。近づいてこようとしないからかもしれない。私と同じくらい、途方に暮れているように見えたからかもしれない。
「ママの彼氏と喧嘩したの。すごく、ひどいやつ」
彼の緑の瞳が細められる。
「あいつが君を傷つけたんか?」
「ただ……大事なことで意見が合わなかっただけ」
この見ず知らずの人に、本当のことは言えない。まだ。
彼は私の顔をじっと見つめ、それから自分のジャケットを脱いで差し出した。
「凍え死ぬぞ」
ジャケットは暖かく、モーターオイルと煙草の匂いがした。血の染みが付いていたが、気にならなかった。
「ここから十分くらいのところに住んでるんだ」と、彼は少し間を置いて言った。
「今夜は俺の部屋に泊まれよ。とりあえず、落ち着くまで」
「あなたのこと、知りもしないのに。どうして助けてくれるの?」
彼はあの強烈な緑の瞳で私を見つめた。
「路地裏で泣いてる女の子を、見て見ぬフリはできねえだろ」
人気のない通りを歩きながら、彼の名前が赤坂里樹だと知った。道行く人々は彼のことを知っているようだった。私の名字が相葉だと告げると、彼の表情に何かがよぎった。
「相葉か」と彼は言った。
「何か問題でも?」
「今夜は、何もかもが問題だ。だが、そいつは違う」
彼のアパートは狭かったが、清潔だった。ベッドとソファ、それに小さなキッチンがあるだけ。彼はベッドを指さした。
「ベッドを使え。俺はソファで寝るから。バスルームはそこだ」
「あなたのベッドは使えないわ」
「ごちゃごちゃ言うな。ちゃんとした睡眠が必要だろ」
彼の電話が鳴り、非常階段に出てそれに応答した。薄い壁を通して、会話の断片が聞こえてくる。
「赤坂里樹、あの相葉というやつは死んだのか?」
「まあ、そんなとこだ。今夜はもうかけてくんな。こっちも色々あんだよ」
彼が部屋に戻ってきた時、私の目にある恐怖の色を読み取った。
「聞こえたか?」
私は頷いた。
「相葉というやつ……それって、私のこと?」
赤坂里樹はソファの端に腰を下ろし、真剣な顔つきになった。
「いいか、俺は君の事情を知らねえし、君も俺の事情を知らねえ。だが、今夜何があったにせよ、これでおあいこだ。そして、君がここにいる限り、誰にも君を傷つけさせねえ。約束だ」
私はこの見知らぬ人を見つめた。血にまみれ、死人についての電話を受け、けれどその瞳には、今日一日見た誰よりも誠実さが宿っていた。
私は一つの怪物から逃れただけで、別の種類の危険へと走ってきたのかもしれない。でも少なくとも今夜、この冷たくて恐ろしい世界で、私は独りではなかった。
