第2章 お互いを信頼できるかもしれない
相葉詩礼視点
壊れたブラインドの隙間から差し込んだ太陽の光が、私の顔を照らす。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。それから、全てが一気に蘇る。樋川夜、逃げたこと、そして私を助けてくれたこの血まみれの見知らぬ男のこと。
慎重に体を起こす。ソファでは、赤坂里樹がすでに目を覚ましていて、靴下を履いているところだった。彼のジャケットは椅子にかけられ、昨夜の血痕がまだこびりついている。アパートは静かで、聞こえるのは外を通り過ぎる車の音だけ。
「よく眠れた?」
私は尋ねた。
「そのソファ、寝心地悪そうだけど」
「今まで寝たどんな場所よりマシだ」
彼は一瞬言葉を切り、私を見る。
「君は?悪夢は見なかったか?」
「ううん。それが不思議なんだけど、見ると思ってたのに……」
「腹、減ってるか?大したものはないが、卵とパンならある」
ベッドの端に足を下ろす。赤坂里樹は私を直視しないように気をつけている。まるで、私に気を使っているみたいに。なんだか、優しいなと思う。
昨夜、彼は私に何をすることもできたはずなのに、自分はソファで寝て、ベッドを私に譲ってくれた。もしかしたら、この世にもいい人っているのかもしれない。
立ち上がって小さなキッチンに向かう。
「朝ごはん、作らせて。せめてものお礼だから」
「礼なんていらない」
彼はためらう。
「けど、君がしたいって言うなら、断らない。誰かに朝ごはんを作ってもらったことなんて、今まで一度もなかったからな」
その告白に、胸が締め付けられる。彼の食器棚を漁り始める。中身はほとんど空っぽで、卵と、少し古くなったパン、コーヒーくらいしか入っていない。赤坂里樹はドアフレームに寄りかかり、私の作業を眺めている。
彼のスマホが震える。彼はちらりと画面を見たが、応答はしない。
「昨日の夜の電話……」
フライパンに卵を割り入れながら、私は口を開く。
「本当に、誰か殺したの?」
「本気でその答えが知りたいか?」
「わからない。知りたくないかも」
「なら聞くな」
彼は長い間黙り込む。
「だが、一つ知っておくべきことがある。俺はアイルランドの組織の人間だ。君は相葉……。本来なら、俺たちは敵同士のはずだ」
卵をひっくり返す手を止め、彼の方を向く。
「じゃあ、今から私を殺すの?」
「殺す気があるなら、昨日の夜に殺してる」
卵の焼ける匂いが、私たちの間の狭い空間を満たす。赤坂里樹の緑色の瞳は真剣だったが、威圧感はなかった。
「俺も君も、世間から捨てられた人間なんだろう」と彼は言った。
「もしかしたら、俺たちは互いを信用できるかもしれない」
安堵感が全身に広がる。彼の言葉がどれほど私に響いたか悟られないように、私はコンロに向き直った。
朝食の後、赤坂里樹は学校の途中まで送ってくれたが、数メートル手前で足を止めた。
「一緒にいるところを人に見られるわけにはいかない」と彼は説明する。
「まだ、な」
わかる。私たちの界隈では、まずい相手と一緒にいるところを見られただけで殺されることだってあるのだ。
学校に着くと、英語の授業が一緒の友達がロッカーの前で私を捕まえた。
「詩礼、昨日の夜どこにいたの?あなたのお母さんから電話があって、探してたわよ」
しまった。お母さんのこと、すっかり忘れてた。きっと家に帰ったら樋川夜が血を流して倒れてて、私がいないことに気づいたんだろう。
「友達の家に泊まってたの。家でちょっとゴタゴタがあって」
「ゴタゴタって何?また新しい彼氏でもできたの?」
「まあ、そんなところ。お母さんも一人の時間が必要みたいだから、しばらく別の場所にいることにしたの」
誰にも本当のことは言えない。樋川夜はまだ私を探しているかもしれないし、赤坂里樹のことは……彼が本当は何をしているのか、私には見当もつかない。
数学の授業中、全く集中できなかった。先生が方程式について話しているけれど、私の頭の中は赤坂里樹の緑色の瞳と、あの血まみれのバットのことでいっぱいだった。もし彼が本当に誰かを殺したのだとしたら、私は怖がるべきなんじゃないだろうか。
でも不思議なことに、彼が何をしたかもしれないかということよりも、もう二度と彼に会えなくなることの方が心配だった。
「相葉詩礼、この問題に答えられるか」
「すみません、頭が痛くて」
「保健室に行きなさい」
誰もいない廊下を歩きながら、私はもう赤坂里樹に会いたくなっていることに気づく。まだ数時間しか経っていないのに、あの小さなアパートに帰りたかった。私のことを本当に心配してくれる人がいる、あの場所に。
放課後、赤坂里樹の部屋に戻り、彼がくれた鍵でドアを開ける。彼はまだ帰っていなかったので、ソファで宿題をしながら待つことにした。彼がどこで何をしているのか、考えないようにしながら。
ドアが開き、赤坂里樹が入ってくる。何かを背中に隠している。
「学校、どうだった?」
「平気。誰も深くは聞いてこなかった」
「そりゃ良かった」
彼はにやりと笑うと、少ししおれた赤いバラを一本取り出した。
「これ、あげるよ。花屋の前を通りかかったら、君のこと思い出したんだ」
明らかに盗品であろうその花を見て、私の目にはじわっと涙が滲んだ。花なんてもらったの、初めてだった。
「これ、盗んだの?」
「正確には、借りただけだ。金は後で払う」
彼は気まずそうに頭を掻く。
「いいものを買う金はないけど、でも……ああ、馬鹿みてえだな」
「ううん、そんなことない。すごく……綺麗」
私がバラに手を伸ばすと、指が触れ合った。赤坂里樹は火傷でもしたかのように手を引っ込め、顔を赤らめた。
彼の首に新しい痣と、拳に擦り傷があるのに気づく。
「また怪我してる」
「職業病みたいなもんだ」
「見せて」
彼の手を取って、キッチンのシンクへと連れて行く。濡らしたタオルで傷口を拭いてあげている間、彼は椅子に座っていた。彼はすごく緊張していて、私の動き一つ一つを、まるで今まで誰も自分を看病してくれたことがないかのように見つめている。
もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。
夕食は質素なものだった。缶詰のスープとクラッカー。だけど赤坂里樹はどこからか板チョコを一枚取り出した。
「これ、どこで手に入れたの?」
「バラと同じ場所だ」と、彼は真顔で言った。
私が笑うと、彼の表情の何かが変わった。まるで、存在すら知らなかったものを見たかのように。
彼は小さなテレビで古い白黒映画を見つけた。私たちはソファに座る。触れ合うか触れ合わないかの距離だけど、彼の体温が伝わってくるほどには近い。
「この映画、古すぎ。変えてもいいよ」
「いや、古い映画は好きだ。安心する」
「安心?」
「だって、大抵はハッピーエンドだってわかってるだろ。現実の人生には、保証なんてないからな」
しばらく考え込んだ後、赤坂里樹はとても慎重に、私の肩に腕を回した。まるで私に触れていいのか確信が持てないみたいに、彼の体はこわばっている。
「相葉詩礼」と、彼は静かに言った。
「あのさ……こんなの、初めてだ」
「初めてって、何が?」
「誰かが家に帰ってくるのを待っててくれてるって感じたの、初めてなんだ」
私もだ。この小さなアパートも、この危険な男の子も。今まで住んだどの場所よりも、ずっと「家」みたいに感じる。
私はもう少しだけ彼に寄りかかる。すると、彼の体から力が抜けていくのがわかった。
真夜中頃、ソファからの物音で目が覚めた。赤坂里樹が熱に浮かされ、苦しそうに寝返りを打っている。
「赤坂里樹?すごい熱だよ」
「なんでもない……ただ、熱いだけだ……」
声は弱々しく、かすれている。濡らしたタオルを見つけ、彼の額に押し当てた。アパートの救急箱には、期限切れのアスピリンしか入っていない。赤坂里樹の熱はひどく、彼はうわごとを言い始めた。
「母さん……行かないで……父さん、いい子にするから……」
「一人にしないで……お願いだから、置いていかないで……」
彼の言葉を聞いて、胸が張り裂けそうになる。バットで人を殴るこの強気な男の子も、内面はただ、見捨てられるのをひどく恐れている、怯えた子供なんだ。
私と、同じだ。
私は一晩中起きていて、冷たいタオルを取り替え、熱が上がった時には彼の手を握った。意識が朦朧とする中で、彼は私の指を強く握りしめ、引き離すことができなかった。引き離したいとも思わなかったけれど。
夜が明ける頃、赤坂里樹の熱は下がった。彼が目を開けると、ソファの隣の床で、まだ手を繋いだまま眠っている私の姿が目に入った。
「一晩中、ここにいたのか?」
「すごく具合が悪そうだったから。心配で」
「誰も……」
彼の声が震える。
「誰も、こんなふうに看病してくれたことなんてなかった」
赤坂里樹は、もがくようにして体を起こそうとする。彼はその緑色の瞳で私を見つめ、私たちの間に何かが通い合った。奇妙な、何かが。
彼は震える腕を伸ばし、私はためらわなかった。力いっぱい、彼を抱きしめる。
「誓う」と、彼は私の髪に顔を埋めるようにして囁いた。
「何があっても、俺が君を守る」
彼の腕の中で、心臓があまりに激しく鼓動し、きっと彼にも聞こえているだろうと思った。
翌日の午後、学校で、駐車場に立つ二人のスーツ姿の男に気づいた。彼らは生徒たちを見ている。でも、親や教師のような目つきではない。その視線は鋭すぎて、何かを値踏みするかのようだ。
私の友達も彼らに気づいた。
「あの人たち、お昼からずっとあそこにいるわよ。教職員には見えないけど」
「新しい先生とかなんじゃない?」
でも、違うとわかっていた。彼らが顔を吟味する様子には、何か捕食者のような雰囲気があった。
赤坂里樹のアパートへ帰る道すがら、誰かにつけられているような感覚がずっとあった。振り返っても、通りはいつもと変わらないのに、背筋を這い上るような嫌な感覚が消えない。私は歩く速度を速めた。
家に帰ると、赤坂里樹は私を一目見て、何かがおかしいと察した。
「どうした?怯えてるみたいだぞ」
「考えすぎかもしれないけど、誰かにつけられてた気がするの。学校にスーツの男が二人いて、ずっとこっちを見てた」
赤坂里樹の表情が硬くなる。彼は窓辺に移動し、ブラインドの隙間から慎重に外を覗いた。
「クソッ」
彼は私に向き直る。
「これからは、一人で学校に行くな」
「どうして?あなたを探してるの?」
「かもしれねえな」
彼は部屋を横切り、私の両手を取る。
「けど、そいつらが誰であろうと、君を傷つけさせたりはしない」
彼の声にある約束の言葉は、私を安心させるはずだった。なのに、それとは裏腹に、私たちのささやかな幸福の泡が、もうすぐ弾けてしまうのではないかという、沈み込むような予感がした。
