第2章 この男が欲しい
部屋の灯りが点き、千葉椿はようやく、この男の顔をはっきり捉えた。
……何、この圧。
冷たくて、強くて、人間味が薄い。まるで冷たい閻魔みたいな無表情。
それなのに顔は――芸能人なんて比べものにならないほど整っている。
体内の薬が、いま最高潮まで回っていた。
理性はとうに溶け、残っているのは欲望だけ。
目の前の、玉のように端正な顔立ちの男を見た瞬間。
千葉椿の頭に浮かんだのは、たったひとつ。
――この男が欲しい。
なら、やることは決まっている。
女の矜持も羞恥も放り捨てて、奪いに行く。
羽鳥紅蓮が一瞬だけ気を逸らした隙に、千葉椿は彼の首へ腕を回した。つま先立ちになり、薄い唇へ、ちゅ、と一度だけ口づける。
羽鳥紅蓮は、もともと機嫌が最悪だった。
勝手に踏み込んできた女。顔には汚れ、服には血。鞭で打たれた痕まである。
……そのくせ、こういうことだけは一丁前か。
眉間に皺が寄る。手を洗おうと踵を返した、その瞬間――。
「……っ」
背中に、また絡みつかれた。
羽鳥紅蓮が苛立ちを隠しもせずに千葉椿を突き放し、洗面へ向かおうとする。だが今度も、千葉椿は離れない。
腕に力任せに首を絡め、木にしがみつくナマケモノみたいに、彼の身体へぶら下がった。
「動かないで……動いたら、命もらう」
言いながら、締め付けがさらに強くなる。
千葉椿は顔を寄せ、耳元へ息を落とした。甘く、熱い吐息。
「君さ、今日お姉さんに会えたの、運がいいよ。大人しく言うこと聞けば、髪の毛一本だって傷つけない。……でも断るなら――」
言葉と一緒に、腕がきゅ、と締まる。
羽鳥紅蓮は二十五年生きて、寄ってくる女は腐るほど見てきた。
だが、こんな脅し方をする女は初めてだ。しかも、この状況で。
――冗談じゃない。
このまま貞操を持っていかれてたまるか。そんな話が外に漏れたら、面子が立たない。
羽鳥紅蓮は身体を揺らし、振り落とそうとする。
だが千葉椿は剥がれない。まるでガムだ。べったり、しつこく。
異様に高い体温が伝わり、羽鳥紅蓮は眉をひそめた。
「……まず降りろ。話はそれからだ。用があるなら、俺にぶら下がるな」
理屈は通っている。
けれど千葉椿は降りない。降りた瞬間、主導権を奪われるかもしれない。
――そんな間抜けじゃない。
千葉椿の手が、不埒に動き始めた。
喉が渇く。
嗅覚も視覚も聴覚も、何倍にも膨れ上がる。
近すぎる距離。冷たくて、鋭くて、それなのに妙にいい匂いが、鼻先にまとわりつく。
近づけ。もっと。
この、凍えるほど冷たい男に。
頬は熱く、呼吸は荒く、瞳は潤んで霞む。
そして――千葉椿は、もう止まらなかった。
衝動のまま、彼へ飛びつく。
何も考えず、ただ、貪るように――。
◇
翌朝。
千葉椿は目を覚まし、記憶が一気に戻って顔が引きつった。
……やった。
昨夜、自分は隣のこの男を――。
ベッドで無防備に眠る男を横目に、千葉椿は唇を尖らせる。
そっと服を探して身支度を整え、何気なくポケットに手を入れた。
――硬貨。
千葉椿の口元が、意地悪く歪む。
ベッドサイドのメモとペンを見つけ、さらさらと書き殴った。
それから音も立てず、何事もなかったみたいに部屋を出た。
三十分後。
ベッドの男が、ゆっくりと目を開ける。
昨夜の出来事を思い出した瞬間、羽鳥三郎様の顔色は一気に沈んだ。嵐の前の暗さ、そのもの。
怒りが噴き上がる寸前、ベッドサイドに置かれた硬貨と、その下の紙切れが目に入る。
羽鳥三郎様は長い指で紙をつまみ上げ、読み――額に青筋を浮かべた。
『昨夜のサービス、最悪。短いし小さいし、お姉さん大・不・満。
でもお姉さん優しいから、これチップ。お釣りはいらない。二度と会わない』
羽鳥紅蓮の指が震える。奥歯がぎり、と鳴った。
今すぐ外の護衛を呼びつけようとした、そのとき――扉が外から開く。
「玉城三吾」
「三郎様」
玉城三吾が、背筋を伸ばして一礼する。
「調べろ。昨夜この階にいた女が誰か。徹底的にだ」
羽鳥紅蓮は言葉の端々に怒気を滲ませ、奥歯を噛みしめる。噛み砕く勢いで。
「承知しました、三郎様」
玉城三吾が出ていく。
羽鳥紅蓮はようやく少しだけ呼吸を整え、浴室へ向かった。
湯で皮膚を削るみたいに洗い流しても、苛立ちは消えない。
浴室から出ると、玉城三吾が会客スペースで待っていた。
「わかったか。誰だ」
羽鳥紅蓮はソファへ腰を下ろし、タオルで髪を乱暴に拭く。
玉城三吾はノートパソコンを開き、画面を差し出した。
「三郎様、この階の監視カメラがすべて破壊されています。残っていたのは、昨夜から今朝までのエレベーター内の映像だけです」
「……監視が破壊?」
羽鳥紅蓮の声が、さらに陰る。
玉城三吾は映像を再生した。
「三郎様、この階のスイートは三室。うち二室が隣同士で、三郎様の部屋と、その隣。もう一室は北側の単独です」
羽鳥紅蓮は短く考え、命じた。
「隣の部屋を調べろ。昨夜、誰が泊まっていた」
玉城三吾が向かう。
羽鳥紅蓮は映像を見続け、二人の男に担がれてエレベーターへ入る若い女の姿で目を細めた。
しばらくして玉城三吾が戻り、首を振る。
「三郎様、隣室は綺麗に片付けられていて痕跡がありません。フロントも『昨夜この階は三郎様お一人だけ』とのことです」
羽鳥紅蓮は眉を寄せ、パソコンから切り取った千葉椿の画像を玉城三吾へ見せた。
「この女を全市で探せ……必ずだ」
