第2章

彼の瞳は、底なしに暗い。

彼女の瞳は、死んだように静かだった。

地下駐車場の空気は、息が詰まるほど重く沈んでいる。

少女は温井知絵を見ても身を引くどころか、白瀬冬弥の首に腕を回し、さらに大胆に身体を寄せた。唇を耳元へ近づけ、何かを囁く。

温井知絵は、目を針で刺されたみたいに痛かった。

視線を切る。車に乗り込み、エンジンをかけてそのまま走り去った。最後まで、二度とあちらを見なかった。

帰宅して間もなく、階下でまた車の音がした。

ウォークインクローゼットのガラスケースの前でネックレスを外していると、背中に高く硬い体温が貼りつく。男の強い気配が、いきなり鼻先を満たした。

白瀬冬弥は両手をガラスに突き、背後から覗き込むように彼女の顔を見た。

「怒ってる?」

温井知絵は見ない。ゆっくりとネックレスを収めてから、淡々と言う。

「怒ってる。人を殺したくなるくらい。……あなた、気をつけたほうがいい」

白瀬冬弥は眉間に力を入れ、しばらく黙った。やがて低く言い直す。

「九条家が、うちと一緒にポラリスの開発をしたがってる。このところずっと、九条家の長男の九条圭太と詰めてた。九条さんは……あいつの妹だ」

「へえ。妹の相手をしないと、協力してくれないってこと?」

「……温井知絵。説明してるんだ。嫌味を言うな」

「説明なんていらない」

温井知絵はようやく横目で彼を見る。澄んだ冷たさが、魂の奥まで見透かすみたいな視線。

「白瀬冬弥。私との暮らしに飽きたなら、この家の奥様を替えたいなら――譲るよ」

白瀬冬弥の顔が、一気に沈んだ。

「……何を言ってる」

温井知絵は小さく息を吐く。

「離婚しようって言ってるの」

彼女は彼を押しのけて出ようとした。

次の瞬間、腕を強く引かれて体が戻る。白瀬冬弥は彼女の頬を掴み、低く警告した。

「そんなこと、考えるな」

温井知絵は黙った。

考えただけじゃない。

――もう、動いている。

温井知絵は。

彼を、いらない。

白瀬冬弥はその夜いったん戻ってきた。深夜まで家にいたのに、一本の電話で呼び出されて出ていく。受話器の向こうは甘ったるい女の声で、泣いているようにも聞こえた。

翌朝。

温井知絵の離婚を担当する弁護士で、親友でもある女からスクリーンショットが届いた。白瀬冬弥の「可愛い彼女」の最新投稿。

夜明け前の山頂。小さな手と大きな手が、ハートを作っている。

添えられた言葉。

《朝日のやさしさの中で、あなたの鼓動を感じる》

大きい手が白瀬冬弥だと、温井知絵には一目でわかった。

彼女はコップを握ったまま、どれほどの時間そうしていたのか分からない。

置いたとき、カツン、と乾いた音がした。心のどこかが、また一枚、剥がれ落ちた気がした。

それから何日も、白瀬冬弥は相変わらず帰ってこない。

二人が顔を合わせたのは会社の会議だけ。彼は中央の上座、彼女は幹部たちと両脇。視線も交わらない。

温井知絵も、わざわざ上階へ行って彼を探したりしなかった。

空いた時間は、家探しと内見。ついでに、彼がこれまで贈ってきたプレゼントの処分。

一周年、誕生日、バレンタイン、結婚記念……。結婚指輪まで売った。

男を捨てるのに、古い感情のゴミを取っておく意味なんてない。

夜。

万華商事の社長、安部直子が温井知絵をクラブへ誘った。

時刻はもうすぐ23時。本当は行きたくなかった。けれど離婚後、盛和グループを出て起業するなら、人脈は必要だ。温井知絵は行くことにした。

店に入ると、安部直子が待っていた。

「直子さん。私ひとりで上がれるのに。わざわざ降りてきたの?」

安部直子は親しげに腕を絡め、エレベーターへ向かう。

「迷ったら困るでしょ。ここ、初めてよね?」

その通りだった。

二人は上階へ。

安部直子が案内したのは大きな個室だった。中央に大きな屏風が置かれ、空間が二つに分けられている。

入った瞬間、屏風の向こう側に大勢いる気配がした。けれど安部直子はそちらへは連れていかず、こちら側――一人だけ座っている女のほうへ温井知絵を座らせた。

どこかで見た顔。白瀬冬弥の親友の彼女だった気がする。

相手も気づいたらしく、少しぎこちない笑みを返してくる。

温井知絵がコートを脱いで座ると、安部直子はまた出ていった。

差し出されたドリンクを一口。

すると屏風の向こうの騒がしい笑い声が、だんだん耳に入ってくる。会話はいつの間にか、温井知絵の話題になっていた。

「そういや最近、冬弥って集まりに温井知絵連れてこないよな」

「当たり前だろ。九条さん、若くて可愛いし。今どこ行くにも連れてって、身を切るみたいに可愛がってるじゃん」

「冬弥もやっと趣味変えたか」

「温井知絵、いくら美人でも八年も抱いたら飽きるだろ」

「ほんとバカだよな。あんだけ尽くして、結局タダで遊ばれただけ。冬弥が捨てるなら、俺が可愛がってやろうか? あの腰、ずっと欲しかったんだよな」

……。

温井知絵の瞳が、氷みたいに冷える。

声の主は二人。聞き覚えがあった。普段は会えば「義姉さん、義姉さん」と甘ったるく呼ぶ男たちだ。

隣に座る女は気まずそうに視線を逸らす。温井知絵が立ち上がったので、逃げるのだと思ったのだろう。

だが温井知絵は喉を整え、ドリンクを手に屏風のほうへ歩いた。

屏風にもたれ、堂々と会話に割って入る。

「それは違うんじゃない? 白瀬冬弥が私と付き合い始めた頃なんて、ぴちぴちの可愛い童貞くんだったのに。私だって八年、タダで抱いたってことにならない?」

個室が一瞬で凍りついた。

ソファの全員が、幽霊でも見たように彼女を見つめる。

そのタイミングで個室の扉が開き、背の高い男が二人入ってきた。

皆が温井知絵を見て、次に彼女の背後を見て――。

顔色が、絶望へ落ちた。

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