第3章
白瀬冬弥が温井知絵の背後に立っていた。顔つきは氷みたいに冷たく、近寄りがたいほどの圧がある。
温井知絵も、刺さるような視線に気づいたのだろう。ちらりと後ろを振り返る。
――やっぱり、ここにいた。
すぐに視線を戻し、ソファの端にいるショートヘアの女の子を見る。さっき入ってきたときは脚を組み、指先で髪をくるくる弄びながら、勝ち誇ったように笑っていたくせに。
今は笑みなんて欠片もない。顔は不機嫌そのもの。温井知絵を睨む目つきは、今にも噛みつきそうだった。
……なるほど。ここで仲間と集まって、何度も何度も同じことを繰り返してきたわけだ。
まさか、周囲の目もはばからず、四六時中一緒にいるような関係にまでなっていたなんて。
白瀬冬弥が一歩、こちらへ。
その瞬間、周りの連中も呪いが解けたみたいに、わっと動き出した。
「義姉さん、ごめんなさい! 俺たち、ただの冗談で……口が悪くて!」
「義姉さん、冬弥と九条さんは何もないです!」
「義姉さん、お願いだから本気にしないで!」
――口々に、見苦しい言い訳。
白瀬冬弥は温井知絵の手首を掴み、そのまま外へ引きずろうとする。
温井知絵は振り向きざま、手にしていたドリンクを彼の顔へぶちまけた。
ぱしゃっ。
空気が、すん……と死んだ。
全員が青ざめる。頭皮がぞわりとするほどの衝撃。――この女、やった。
次の瞬間、温井知絵はにこりと笑い、やわらかな声で言った。
「愛人さんと、どうぞ続けて。お楽しみのところを邪魔するのも悪いので、これで失礼します」
そう言いながら、掴まれた手を外そうと指を絡めていく。
白瀬冬弥の顔が、みるみる醜く歪んだ。次の瞬間、彼は躊躇なく温井知絵を抱え上げ、肩に担ぎあげると、そのまま部屋を出ていった。
残された一同。
「…………」
廊下。温井知絵は白瀬冬弥の背中で激しく暴れる。だが体勢が悪く、息が詰まるだけだった。
ちょうどエレベーターが降りてくる。
白瀬冬弥が乗り込もうとし、向きを変えた、そのとき。
視界の端に、艶のある黒い革靴。
黒いスラックスに包まれた、まっすぐ長い脚。
そして、脇に落ちた冷たいほど白い手。指は一本一本が彫刻みたいに長く、骨ばって美しい。
静かで、気まずい沈黙が落ちる。
エレベーターを降りるとき、温井知絵は堪えきれず顔を上げた。
鋭い光を秘めた、妖艶な瞳がこちらを斜めに見下ろしてくる。
温井知絵「……」
反射的に顔を覆い、また俯いた。
クラブの外。
白瀬冬弥は温井知絵を車の後部座席へ放り投げ、自分も乗り込む。
温井知絵は目が回り、ふらふらと起き上がった。逆さにされていた時間が長すぎたうえに投げ込まれたせいで、脳が揺れているみたいだ。吐き気まで込み上げる。
白瀬冬弥は車内の工具箱からウェットティッシュを取り出し、顔を乱暴に拭う。
その手元。ティッシュ箱の奥に、避妊具らしきものが見えた。
耳元で、彼の苛立った声が落ちる。
「ここに何しに来た。浮気の現場でも押さえに来たのか?」
温井知絵は無言でドアを開け、降りようとした。
――汚い。こんな車、座っていたくない。
「……温井知絵!」
白瀬冬弥が怒鳴り、腕を掴んで引き戻す。
「どこ行く気だ。いい加減にしろ、終わりがないのか!」
温井知絵は息が少し荒い。指先で掌の中心を強く押し、震えを抑えた。
「……帰る。家に」
白瀬冬弥はクラブの入口に立っていた葛西聡を呼びつけ、運転させた。
帰り道、二人は一言も交わさない。
温井知絵はできるだけ距離を取り、顔色は真っ青。今にも吐きそうだった。
家に着くなり、温井知絵は車を降りる。
キッチンで氷水をコップ一杯、一気に飲み干してようやく落ち着いた。
リビングへ出ると、白瀬冬弥が外のソファに座っていた。
温井知絵も向かいに腰を下ろす。
また、息が詰まる沈黙。
先に口を開いたのは白瀬冬弥だった。
「俺は仕事の話をしに行っただけだ。クラブに乗り込んで騒ぐなんて、俺の顔に泥を塗って楽しいか? 自分が今どれだけ愚かで、みっともなくて、ヒステリックな女に見えるか分からないのか」
「それだけ?」温井知絵は淡々と返す。
「まだある。俺と長くやっていきたいなら、くだらない疑いは捨てろ。お前の機嫌を取る時間なんてない」
「うん。それで?」
「……」白瀬冬弥は眉を寄せる。「温井知絵。今のお前、すごく鬱陶しいって自覚あるか?」
温井知絵は立ち上がり、口元に薄い笑みを浮かべた。
――もうすぐ、鬱陶しくなくなるよ。
そのまま二階へ上がる。
白瀬冬弥は、あの笑みが余計に癇に障った。しばらくリビングで苛立ちを燻らせ、やがて寝室へ行くと、彼女はもう眠っていた。
シャワーを浴び、隣に横になる。
暗闇の中。温井知絵は背を向け、さらに外側へ身をずらす。肌が一ミリも触れない距離。
白瀬冬弥は苛立ち混じりに彼女を抱き寄せ、ベッドの端から力づくで引き戻した。
大柄で、力が強い。少し締めるだけで、温井知絵は身動きが取れなくなる。
彼女は身体をこわばらせたまま、一晩を過ごした。
翌朝。温井知絵は自分の分だけ朝食を作った。
白瀬冬弥が階段を下りてくる。彼女が一人でパンを食べているのを見て、そのまま出ていくかと思いきや、進路を変えてダイニングへ入ってきた。
身を屈め、耳元に囁く。宥めるように声だけは甘く。
「今週末、船で二日遊びに行こう。二人きりで」
温井知絵は牛乳を飲みながら、鼻で小さく「ん」と返した。
案の定、週末の前日になって、彼はまた約束を反故にした。H市へ飛ぶ用事ができた、と。
温井知絵の胸は、波ひとつ立たない。
たぶん彼自身、気づいていないのだ。
二人でちゃんと食卓を囲んだのがいつだったか。
まともに向き合って過ごしたのが、どれほど前だったか。
口では「離婚なんて考えるな」と釘を刺すくせに、実際には彼女を空気みたいに扱っている。
彼女がある日ふっと消えても、きっと平気でいられる――そんなふうに。
週末。温井知絵は本棚から、自分の分の本だけを抜き取り、スーツケースに詰めた。新居へ先に運ぶためだ。
本を詰めていると、滅多に連絡してこない義母から電話が入った。
温井知絵は出て、礼儀正しく言う。
「白瀬夫人、ご無沙汰しております」
江崎千恵は傲慢に鼻を鳴らすように返した。
「一度、戻ってきなさい。前に話した件、書面にしておきましょう」
「そこまでする必要がありますか」
「私が必要だと言ったら必要なの」
「分かりました。午後、伺います」
「昼に来なさい」
「……承知しました」
温井知絵は特に予定もない。そう答えた。
電話の向こう。江崎千恵は二階の窓から、庭を歩く白瀬冬弥と九条花奈を満足げに眺めていた。
温井知絵に見せつけてやるつもりなのだ。
誰と誰が本当に釣り合うのか。
そして、誰こそが息子の運命の相手なのかを。
