第4章
温井知絵が白瀬家の屋敷に着いたのは、昼前――だいたい11時40分頃だった。
出迎えた執事は、目を見開いた。
来客があること自体は聞いていた。だが、来るのが若奥様だとは思っていなかったのだ。しかも今、リビングには若様と九条さんがいる。執事の額に、じわりと汗が滲む。
白瀬冬弥と温井知絵が夫婦であることを知っているのは、両家の両親を除けば、葛西聡と、白瀬家の執事をはじめとする身の回りの使用人たちだけだった。
「……こちらへ」
執事は奥様に言いつけられたとおり、腹を括って案内するしかない。
リビングの扉に着く前から、鈴を転がしたような甘い声が聞こえてきた。
「また私の勝ち~。冬弥お兄ちゃん、わざと負けてくれてるでしょ?」
温井知絵の足が止まる。
頭の中が一瞬、真っ白になった。けれど、すぐに全部つながった。
「……ふふ」
堪えきれず、冷たい笑いが漏れる。温井知絵はそのまま足を進め、扉を押し開けた。
今日は本を運ぶ予定で、化粧もしていない。服装も簡素で、ゆったりした白いシャツにデニム。滝のような長い髪はヘアバンドでゆるく束ねている。
それでも肌は雪みたいに白く、目元は冴え、唇は赤い。頬に落ちた数本の髪が、艶やかさの中に妙な無垢を混ぜていた。
リビングで、白瀬冬弥が彼女を見た。瞳に驚愕が走る。
「お前、どうして……」
「お義母さんに呼ばれたの」
温井知絵は淡々としていた。目の奥に、薄い嘲りだけを沈めて。
「それより、あなたH市にいるはずじゃなかった? いつから瞬間移動できるようになったの?」
「……」
白瀬冬弥の視線が、わずかに揺れる。後ろめたさが一瞬だけ滲んだ。
ソファから九条花奈が立ち上がり、温井知絵の前まで来る。挑むように手を差し出した。
「はじめまして。九条花奈です」
温井知絵は彼女を見もしない。差し出された手も、存在しないもののように通り過ぎる。
そのとき、玄関側から江崎千恵が入ってきた。温井知絵を一瞥すると、にこやかに九条花奈の手を取る。
「花奈、今日は楽しい? ここは自分の家だと思っていいのよ」
そして、さらりと温井知絵を紹介した。
「こちらはうちの会社の温井さん。少し話があって呼んだの」
温井知絵が白瀬冬弥の女だと、誰もが知っている。にもかかわらず「会社の社員」として扱う――つまり江崎千恵は、彼女を白瀬家の人間として認める気がないのだ。
同時に九条花奈へ、こう告げてもいる。温井知絵は何者でもない。白瀬家と九条家の縁談に、障害などない、と。
九条花奈は誇らしげに顎を上げた。
「へえ、ただの社員さんなんだ」
温井知絵は九条花奈も江崎千恵も見ない。
ただ白瀬冬弥だけを見つめていた。静かに、彼の顔を。反応を確かめるように。
けれど白瀬冬弥は冷たい表情のまま、彼女の名を正す気配すらない。
分からないはずがない。知らないはずもない。
ただ――彼女が恥をかかされることを、もう気にしなくなっただけだ。
「お義母さん。話があるんでしょう? ここで済ませませんか」
温井知絵が江崎千恵を見る。
「それはまた今度。せっかく来たんだから、食事していきなさい」
「食事は結構です。用事があるので」
温井知絵が踵を返した瞬間、背後から鋭い声が飛んだ。
「年上が食べていけと言ってるのに、なんて態度なの。しつけがなってないわ」
温井知絵は振り返り、澄んだ目でしばらく江崎千恵を見つめた。
「……分かりました。食べていきます。後悔しないでくださいね」
そう言って、彼女は先に一人掛けの席を選んで座った。
九条花奈は堂々と白瀬冬弥の隣に腰を下ろし、彼の腕に抱きつく。
「冬弥お兄ちゃん、続きやろ。ね、碁」
白瀬冬弥は腕を引き抜き、視線だけを温井知絵へ向けた。
「温井さんって、碁できるんですか?」
九条花奈も温井知絵を見る。
温井知絵はテーブルの上の碁盤を一瞥した。上質な玉で作られた碁石――なのに、盤面の流れはどう見ても五目並べだ。こんな子どもじみた遊びで、さっき白瀬冬弥は負けたのか。
彼は人を喜ばせる術を忘れたわけじゃない。
ただ、それを彼女に使わなくなっただけ。
温井知絵は淡く目を上げ、白瀬冬弥を見た。口元に、冷えた笑み。
「できますよ。九条さん、やります?」
白瀬冬弥の目に、わずかな苛立ちが浮かぶ。警告の色が濃い。
九条花奈は自信満々に石を戻していく。
「温井さん、白と緑、どっちがいいですか?」
温井知絵は緑の石を取った。
「緑で。私に似合うから」
「……」
白瀬冬弥が言葉を失う。
九条花奈と江崎千恵は笑いかけて、すぐに表情を引っ込めた。自分で自分を皮肉る人間なんて、初めて見た――そう思ったのに、数秒遅れて気づく。これは自虐じゃない。刺している。
九条花奈は歯を食いしばり、先手を奪うように石を置いた。
ぱち、ぱち、と石が盤に落ちる。
江崎千恵の目には、九条花奈の手は整然として見えた。対して温井知絵は、あちこちに散らすように置いている。筋も何もない。
江崎千恵はろくに盤面を追いもせず、白瀬冬弥へ目配せした。
ほら、名門の令嬢ってこういうものよ、と言いたげに。
白瀬冬弥は無反応だった。
石が増えるにつれ、九条花奈は何度も「勝った」と思いかけては止められ、感情が上下する。焦りが滲んできた。
ただ、勝ちきれないのは温井知絵も同じだ。引き分けなら――。
引き分け?
自分が「ただの社員」と同格? それだけで腹が立つ。
「あなたの番ですよ」
温井知絵が言う。
九条花奈は盤の隅、目立たない場所にすでに三つ並べていた。あと一つ置ければ勝ちだ。
平静を装って一つ置く。視線は温井知絵の指先に釘づけになる。止めに来るな、止めに来るな――。
温井知絵は気づいていないように、別の場所へ石を落とした。
九条花奈の顔がぱっと明るくなる。
「私の勝ち!」
江崎千恵がすぐさま拍手で盛り上げた。
だが次の瞬間。
温井知絵の白い指が、盤上の石を一つ、また一つと静かに回収し始める。
そこでようやく二人は気づいた。
温井知絵の石は、すでに別の場所で五つつながっている。
九条花奈と江崎千恵の顔色が、すっと青ざめた。
