第1章
崇介は目を細め、ちらつく赤いランプを見た。
「今度は何だよ。秘密のボタン? 誰を呼んで助けてもらうつもりだ?」
彼はペンをその場でへし折り、さらに力任せに踏み砕いた。
「中に……ピーナッツが……」
全身に蕁麻疹が走る。息を吸うたび、胸の内側を生身のまま引き裂かれるみたいに痛かった。
「死にゃしないよ。オーディション中なんでしょ」
七奈美は人混みに向かってにこやかに笑い、それから崇介へ視線を戻す。
「それとも、この子をそんな幽霊みたいな顔でここに置いといて、私の歓迎会の空気ぶち壊すつもり?」
その瞬間だった。胸の奥に張っていた、あれが――「愛」だと信じていた一本の弦が、ぷつりと切れた。
七奈美と崇介は幼なじみで、互いの初恋だった。去年、七奈美が留学して、ふたりは「円満に」別れたらしい。名目は、いわゆる「いちばんの友達」に戻るため。
でも先月、七奈美が帰ってきてからは違った。仲間内は一晩中はやし立てた。ふたりは「キングとクイーン」だって。
私が変に考えないように、崇介は改まった顔で言った。
「全部、過去の話だ。もうとっくに乗り越えてる。まだ七奈美が忘れられないなら、俺がなんでお前と付き合うんだよ」
七奈美も、鼻で笑うみたいに言った。
「気楽にしなよ、シンデレラ。私が本気で残り物に手を出すつもりなら、あなたが出てくる余地なんてあると思う?」
私は、その嘘を――信じた。馬鹿みたいに。
けれど、少しずつおかしいと気づいていった。
私がいると、七奈美はいつも「たまたま」私たちの間に割り込んで会話を切る。ふたりが付き合っていた頃の内緒話をわざと持ち出したり、ふたりにしか通じない身内ネタで笑い合ったりして、私だけを置き去りにする。
私が言葉を挟めなくなると、今度は無邪気な顔でこう言うのだ。
「千明、崇介と私は、ただお互いをいちばん理解してる友達なだけ。まさか私に嫉妬してるの? そんな不安がり過ぎないでよ」
悪意に気づいてから、私は後で崇介に不安を打ち明けた。返ってきたのは、うんざりした声。
「お前さ、ちっちゃいんだよ」
――そして今。
七奈美が身を寄せ、耳元で囁く。
「本気で、あなたが彼を奪えると思ってた? あなたなんて、彼が退屈しのぎに拾って遊ぶ慈善プロジェクト。かわいそ」
周りがどっと笑った。前のめりになって、腹を抱えて、まるで出来のいいコメディでも観てるみたいに。
「ははっ、演技うますぎ!」
「もっと寄れ! アップで!」
何十台ものスマホのカメラが顔面に突きつけられる。パシャパシャと焚かれるフラッシュに目がくらみ、視界が白く滲んだ。
私は必死に崇介のジャケットの袖口を掴み、涙を止められないまま縋った。
「薬を……お願い……ちょうだい……」
七奈美はわざと一歩前へ出て、崇介の腕にぎゅっと絡みつく。頭を彼の肩に預け、私へ挑発そのものの視線を投げた。
人混みの男たちがすぐに囃し立てる。
「貢ぐ君やめとけって!」
「マジでこいつに手玉に取られてんの?」
その声に煽られて、崇介の顔色が変わった。最後の迷いが消える。
「誰が手玉に取られてるって?」
彼は乱暴に、私の指を一本ずつこじ開けた。
「もういいって。やめろよ。これ以上わざとらしいことしたら、俺、ほんとに怒るぞ」
私の顔色が息の詰まるほど青白くに変わっていくのを見て、彼の表情が一瞬だけ揺らいだ。腰を落として覗き込もうとした、そのとき――七奈美が彼の腕をぐいっと掴む。
「ほら言ったじゃん。演技が一流だって。あんた、また騙されかけた」
七奈美はくつくつ笑い、瞳いっぱいに嘲りを浮かべた。
「ただの軽い食物アレルギーでしょ。少し発疹が出たくらいで死なないって」
「探してるの、これ?」
七奈美が取り出したのは、本物のエピペンだった。
それを私の目の前で、ひょい、ひょいと無造作に放り上げては受け取る。まるでおもちゃみたいに。
霞む視界の中心で、私はその命綱から目を離せなかった。
「……ちょうだい……お願い……」
全身の力をかき集めて、私は前へ倒れ込むように伸びた。震える手で、なんとか届かせようとする。
指先が触れる、その寸前。
七奈美は手首をくいっと返し、エピペンを隣の氷桶へ放り投げた。吸い殻と酒の滓で汚れた、冷たい水の中へ。
「やだ、手が滑っちゃった」
