第2章

 気道が激しく痙攣し、呼吸が押しつぶされて、やたら速くて浅い喘鳴みたいな息しか出なくなる。

「まだ演技してるの?」

 七奈美が見下ろしてくる。痙攣する私の身体を、上から。そこにあるのはむき出しの嫌悪だけだった。

 崇介はその隣に立ち、顎を強く引き結んだまま、露骨に苛立った声を落とす。

「千明、いい加減にしろよ。今日は七奈美の歓迎会だろ。わざわざ今夜の空気、全部ぶち壊す気か?」

 七奈美の取り巻きらしい女の子が腕を組んで一歩出てくる。

「ねえ。パニック発作のフリして男の気を引きたいわけ? 今のあんた、ほんと惨め。見てて哀れなんだけど」

 伸ばそうとする呼吸のたび、砕いたガラスを吸い込むみたいに喉が裂ける。激痛で視界の端がじわじわ黒く滲んだ。

「違う……ほんとに……ピーナッツ、アレルギーで……」

 喘ぎながら、かろうじて声を絞り出す。

 怒りみたいに盛り上がった蕁麻疹が、火の手のように首から一気に広がっていく。

 お願いだから、誰か。ひとりでいい。私の目の中の絶望が『本物』だって気づいて。スマホを取り出して、119番に――。

 そう祈ったのに、返ってきたのは、何十もの冷たく嘲る視線だけ。差し伸べられる手は一つもない。

 七奈美が口元を嘲るように釣り上げ、崇介の腕を掴む。

「放っておきなよ。踊ろ。ああいう貧乏な子ってみんな同じ——放置しとけばいいの。相手するほど調子に乗るんだから」

 フロアの低音が鼓膜をびりびり痺れさせる。

 明滅するストロボの下で、七奈美はわざとらしくグラスを傾けた。

 どろりとした深紅の液体が、背中の大きく開いたドレスの深いVネックへざばっとこぼれ、胸元の白い肌を濡らす。

「やだ、私ってば手元狂いすぎ!」

 七奈美は甲高く叫ぶ。なのに顔には、でかくて得意げな笑みが張り付いていた。

 フラタニティの男たちが一瞬で沸く。

「チャンスだろ!」低音に負けじと誰かが喚いた。

「崇介、早く行けよ!」別の男が囃し立てて、崇介の背中をぐいっと押す。

「罰ゲームじゃねえ、最高のご褒美だろ! ははは!」

「おい、崇介の貧乏くさい彼女、ヤキモチ焼かね?」

「今、死んだフリで忙しいんだろ! 誰が構うんだよ!」

 視界はトンネルみたいに細く、どんどん暗くなる。その中で、崇介が一度だけ、私の方を振り返った。

 そして一秒の迷いもなく、皆の前で頭を下げ、赤ワインで濡れた七奈美の胸元へ唇を押し当てた。

 ライトに照らされ、囃し声に包まれながら、二人の身体がぴたりと密着する。

 吐き気のする、裂けるような痙攣が腹の底から一気にせり上がった。

 肘で床を押し、前のホールへ這って助けを呼ぼうとする。でも手足がもう、まるで他人のものみたいに動かない。

 窒息と痛みの縁で、狂ったような思いつきが、濁った脳を槍みたいに貫いた。

 病的なまでに妹を守りたがる兄、颯斗が——無理やり、ジーンズのきついコインポケットに予備の抗アレルギー薬を押し込ませていた。

 麻痺した指先が、やっと小さな白い錠剤を引っかき出した瞬間、心臓が胸を破って飛び出しそうになる。震える手を少しずつ上げ、唇へ必死に運ぶ。

 あと数センチ。唇に届きさえすれば——生きられる味が、もう口の中にある気がした、そのとき。

 赤い靴底の細いハイヒールが、鋼の釘みたいに叩き落とされ、私の手首に突き刺さった。

 骨が砕けるみたいな白い痛みが、脳を丸ごと乗っ取る。指が勝手に開き、白い錠剤がころりと汚れた絨毯へ転がり落ちた。

 七奈美がダンスフロアから戻ってきていた。

 ゆっくりとつま先を捻り、手首の上でぐりぐり踏み潰していく。私の最後の命綱を、役立たずの粉にすり替えるみたいに。

 背後の輪が、また耳を裂くような爆笑を上げた。

「やべえ、顔、紫すぎだろ! 役入りすぎ! 誰か起こしてやれよ!」

 その声が終わる前に、安っぽいウォッカが満杯のグラスごと、私の顔へぶちまけられた。

 アルコールが裂けた蕁麻疹と目に染み込み、硫酸を流し込まれたみたいに灼ける。眩暈がするほどの激痛に、胃液がこみ上げて、私はえずき続けた。

「……どうして……」

 私は七奈美の目を、必死に睨み据える。

「どうして、ここまで……? 嫉妬だけで……本気で人を殺す気なの?」

 七奈美は腰を折って覗き込み、笑みを歪めた。悪魔の仮面そのもの。

「あなた、身寄りゼロの孤児なんでしょ? じゃあ聞くけどさ……今夜、フラタニティのパーティでピーナッツを喉に詰まらせて死んだとして、遺体を引き取りに来る人もいない。警察に細かく調べさせる人もいない。そうでしょ?」

 一拍置く。瞳の奥で、露骨な欲がぎらついた。

「それなら崇介は、あなたがサインした『起業の共同創業者』の書類を盾にして、あなた名義の高額な生命保険を換金できる。あなたが死ねば、そのお金で私たちの結婚式ができるの。完璧じゃない?」

 胸の奥で、混じり気のない怒りが灼熱の塊になって暴れ出す。

 これは意地悪な大学の悪ふざけなんかじゃない。計画的な殺人だ。

 けれど、その『完璧』を自称する筋書きには、致命的な穴がある。

 両親はもういない。けれど私は、路地裏の名無しの孤児なんかじゃない。貧乏で、頼る者もない存在でもない。

 私は坂田家の、第一順位の相続権を持つ末妹——世界の経済を握る巨大な王朝、その血を引く妹だ。

 私の髪が一本でも欠けたら、冷酷で鉄腕の兄・颯斗が、手元の精鋭の私兵ごと、一夜でこのフラタニティ寮を地図から消す。

 今すぐこの二人を両手で引き裂いてやりたい。そんな憎悪で目を焼きながら、私は彼らを睨みつけた。

 でも七奈美にとって、恨みだけが濃くて反撃できない瀕死の視線は、ただの滑稽な見世物だった。

 口角がゆっくりと、吐き気のする形に持ち上がる。七奈美は身を屈め、私の耳元へ唇を寄せた。

「痛いでしょ」

 囁きは甘く、底が冷たい。

「じゃあ、私が手伝ってあげる。楽にしてあげるから——もう苦しまなくていいよ」

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