第3章

 七奈美は氷桶から水を滴らせるタオルをつかみ上げ、容赦なく私の口と鼻に押し当てた。

 冷たい水が一気に鼻腔へ流れ込み、もう片方の手は後ろ首をがっちり掴む。鍵でも掛けられたみたいに、逃げ場がない。

 胸の内側に巨石を押し込まれたように重く、肺に残っていた最後の酸素まで無理やり搾り取られていく。

 生きたい。本能がすべてを乗っ取った。私は陸に投げ出された瀕死の魚みたいに、狂ったようにもがいた。

「何してんだよ!」

 崇介の声が、騒音を真っ二つに裂いた。

 その声が聞こえた瞬間、七奈美はぱっと手を離し、濡れたタオルを勢いよく引き剝がす。

 私が目も見えないまま腕を振り回し、体勢を立て直そうとしたその一瞬――七奈美は、わざと私の腕の軌道に頬を差し出した。

「パァン——!」

 乾いた平手打ちの音が部屋に炸裂する。

 七奈美は大げさによろめいて数歩下がり、たちまち赤く腫れた頬を両手で押さえた。瞳に一気に涙が溜まる。

「叩かれた! ほら、やっぱり演技じゃん!」

 声を張り上げ、喉が裂けるほどに叫ぶ。

 崇介の顔に浮かんだ警戒は、七奈美の赤い頬を見た途端、陰気な怒りに塗り潰された。

「千明、お前、どこまで恥さらす気だよ。みっともない」

 私は必死に後ろへ這おうとした。だがスニーカーのかかとが、床に広がった酒のシミを踏む。

 ツルッ。

 足首が滑り、体が仰向けに倒れ込んだ。

 腰の下が、ガラスのローテーブルの鋭い縁に思い切りぶつかる。

 テーブルの上のグラスがいくつも跳ね、床に落ちて粉々に砕けた。

 鋭い破片が一瞬でシャツを裂き、背中へ深々と突き立つ。

 電流みたいな激痛が、全身を暴力的に貫いた。

 私が本気で痙攣するのを見て、崇介の目にようやく、ほんの少しの迷いが走る。

 思わず半歩、私に近づいて――

「……あいつ、マジでヤバいんじゃ」

 言い終えるより早く、七奈美の爪が彼の手首に食い込んだ。冷たい笑み。

「また騙されるの?」

 わざと声を大きくして、私を指さしながら喚く。

「さっき叩く力あったじゃん! 本当にアナフィラキシーの人間が殴れるわけ? この演技派に振り回されないでよ!」

「七奈美……」崇介は私の震えを見つめ、作っていた冷静に亀裂が入る。

「もしかして……本当に、エピペン、渡したほうが……。今回は演技じゃない気がする」

「はいはい、冗談はそこまで!」七奈美が突然パンパン、と手を叩き、これでもかというほど呆れた顔を作った。

「そうだ。さっきお腹すいたって言ってたよね、千明?」

 崇介はその筋書きを疑いもせず丸呑みし、顔の緊張がすっと抜けた。

「なんだよ。結局、腹減って拗ねてただけか」

 彼はトレーからケーキをひと切れ取り、私のそばに片膝をつく。

 私は必死に首を振った。気道は腫れ上がり、針の穴ほどしか残っていない。ここで食べ物を押し込まれたら、終わる。

「ほら、まだ演じてる」七奈美が鼻で笑う。

 彼女は勢いよくしゃがみ込み、鉄の万力みたいに私の顎を掴んで、無理やり口をこじ開けた。粘ついて重いクリームとスポンジが、大きな塊のまま乱暴に押し込まれる。

「飲み込めばいいだけでしょ!」

 ねっとりしたクリームが、今にも閉じそうだった気道を完全に塞いだ。背骨が床から反り返り、喉の奥はむせ返りと嘔吐反射でぐちゃぐちゃになる。汗と涙が顔を覆った。

 七奈美が、狂気じみた高揚の笑い声を上げる。

「ほらね? 食べたら元気出たじゃん!」

 その隣で崇介は、信じられないことに頷き、背を向けて去ろうとする。

 私は残りの力を掻き集めて飛びつき、両手の指を彼のジーンズの裾に食い込ませた。関節が白くなるほど、必死に。

「た……すけ……」声が、ほとんど出ない。

「私の兄……坂田グループの……颯斗……」

 崇介は大きく、そして露骨に見下した笑いを漏らした。私を見る目は、正気を失った人間を見るそれだ。

「坂田グループの後継者? じゃあ俺はホワイトハウスの広告塔だ。離せ。ふざけんな」

 周囲が一斉に、爆ぜるように笑い出す。

「シンデレラ気取り、入り込みすぎだろ。億万長者のお嬢様のつもりかよ!」

「撮れ撮れ! 次はどんな支離滅裂なネタ出すか見たい!」

 嘲笑の波の中、七奈美はまたしゃがみ込み、唇を私の耳に寄せて囁いた。

「誰も信じないよ。大人しくここで死んで? そのほうが、みっともなくないから」

 胸の奥で怒りが煮えたぎるのに、体力は急速に抜けていく。穴の空いたタイヤから空気が漏れるみたいに、止められない。

 それでも私の手が崇介の裾を掴んだままだと気づいた瞬間、七奈美の目から戯れが消えた。残ったのは、むき出しの悪意。

 彼女は立ち上がり、手を振り抜く。凶暴な平手打ちが二発。

「顔上げて! もう一回みんなに見せてよ!」

 避ける力すら残っていない私に、彼女は足を上げた。尖ったスチールのヒールが、私の手の甲へ容赦なく落ちる。

 ぐしゃり、と。

 骨同士が無理やり噛み合って砕ける、吐き気のする音が腕を駆け上がり、肩まで突き抜けた。

 それでも足りないのか、七奈美は私の髪を掴み、死んだ犬でも引きずるみたいに崇介のそばから引き剝がした。顔が、酒のシミとケーキ屑だらけの汚いカーペットを擦り、皮膚が焼けるように痛い。

「冷静にしてやれよ!」兄弟会の男たちが、囃し立てる。

 次の瞬間、氷みたいに冷えた水が、大きなカップのまま頭からぶちまけられた。

 私は床に丸まり、胸が激しく上下する。割れたような息が漏れる。壊れかけの機械みたいに。

 崇介は腕を組んだまま、それを見ているだけだった。

「おいおい、ほどほどにな。やりすぎんなよ」

 止める口調じゃない。許可している声だ。

 耳をつんざくようなハム音が聴覚を呑み込み、視界は急速に狭まって、細いトンネルになっていく。周りは暗闇の中で揺れる影しか残らない。

 七奈美の狂った笑いは水底から響くみたいに遠く、崇介の声も、途切れ途切れの雑音に変わった。

 血のついた指先が、ついに力を失ってだらりと落ちる。

 最後の、みっともない痙攣のあと――身体は何もかもを諦めたように、骨を抜かれた人形みたいに床へ崩れた。

 本当に死ぬ、その直前の一瞬——

 前厅に、重い軍靴が床を踏み砕くような轟音が炸裂し、空気を引き裂くほどの怒号が重なった。

「千明——!」

 闇に沈み切る、ほんの手前。

 巨大で、見慣れた影が――正気を失ったみたいに、私へ向かって突進してくるのが見えた。

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