第4章
高田晴美視点
起き上がろうとした瞬間、鋭くギザギザとした痛みが下腹部を切り裂いた。私は息を呑み、枕へと崩れ落ちる。頭がずきずきと痛む――目の奥で鈍く、一定のリズムを刻むようなその激痛に、部屋全体がぐるぐると回って見えた。
「無理しないで。ゆっくりね」
不意に、看護師がそばに立っていた。年配の女性で、その瞳は優しく、名札には『佐藤』とある。彼女は慣れた手つきで点滴を調整してくれた。
「娘は……」しわがれた声が出た。喉がまるでガラスの破片で埋め尽くされているかのように痛い。「早織は?」
佐藤は言い淀み、部屋の隅にある空っぽのプラスチック椅子に視線をやった。「ここには誰もいないわ」
「でも、夫は……雅弘は……」
「携帯に入っていた番号にかけたの。高田様、で合ってるかしら?」佐藤は唇を噛み、私から目を逸らした。「彼は……来られないと。今は国外にいるそうよ」
その時、記憶が鮮烈に蘇った。
遠くへと消えていく雅弘のSUVのテールランプ。
そして……衝撃。腹部に激しく打ち付けられたハンドル。
私はとっさに腹部に手をやった。平らだった。柔らかく、何もない。
「赤ちゃん……」私は震える声で呟いた。
佐藤は何も言わなかった。ただ手を伸ばし、私の手を強く握りしめるだけだ。その沈黙は、まるで鉛のように重かった。
「亡くなったの?」
「シートベルトと衝突の衝撃で、腹部にひどい損傷を負っていたの」彼女は静かに告げた。「それに、ストレスもあって……本当にごめんなさい。私たちも手を尽くしたのだけれど」
涙は出なかった。泣くことさえできなかった。まるで大地から切り離され、ふわふわと漂っているような感覚だった。
「どのくらい眠っていたの?」
「三日間、意識が戻ったり途切れたりを繰り返していたわ」佐藤は言った。「ひどい脳震盪でね。先生も脳の腫れを心配していて……あなた、かなり混乱していたのよ」
「混乱?」
「ええ。ここにいない人の名前を、ずっと呼び続けていたから」
彼女は最後にバイタルを確認し、胸が張り裂けるような哀れみの視線を私に向け、部屋を出て行った。
私は一人残された。
ベッドサイドのテーブルに私の携帯があった。画面にはヒビが入り、充電も残り少ない。
手に取ろうとしたが、指の震えが止まらず、二度も取り落としてしまった。
「高田雅弘」
ビデオ通話のボタンを押す。
コール音が鳴る。鳴り続ける。いつまでも鳴り続ける。
諦めかけたその時、画面が繋がった。
映像は鮮明だった。あまりにも鮮明すぎた。そのコントラストが目に痛い。
雅弘はテラスに座っていた。彼の背後には、ありえないほど深く青い空が広がっている。リゾート地のなだらかな丘陵が見えた。
「生きていたか」
彼は言った。安堵の色はない。むしろ、落胆しているように聞こえた。
「雅弘……」私は言葉を詰まらせた。「私、病院にいるの」
「知っている。警察から連絡があった。狂ったような運転をしていたそうだな。危険運転で起訴されかけたんだぞ、晴美。他人を巻き込んで死なせなかっただけでも運が良かったと思え」
「私……赤ちゃんを、流産したの」
雅弘はワインを一口すすった。
「そのほうが良かったのかもしれないな」と彼は言った。
肺から空気が抜けた。「え……?」
「今の自分を見てみろ、晴美。自分がどんな状況にいるか」彼は携帯を顔に近づけた。その目は冷たく、石のように硬かった。「君は情緒不安定だ。車で俺たちを追いかけてきた時の君は、完全にヒステリー状態だった。そんな状態で、どうやって子供を育てるつもりだ? 自分の面倒さえまともに見られないくせに」
「あなたが早織を連れ去ろうとしたから追いかけたのよ!」
「俺は娘を休暇に連れて行こうとしただけだ。君の被害妄想がぶち壊した休暇にな」彼は退屈そうにため息をついた。「ちなみに、早織はトラウマを抱えてしまったよ。君が事故を起こしたことを知っているんだ。君がわざと事故を起こしたと思っている。俺たちを操るために。俺たちを連れ戻すためにね」
「そんな……」
「あの子は君と話したくないと言っている」雅弘が言葉を遮った。「率直に言えば、俺もだ。俺たちはここで心の傷を癒やそうとしているんだ。絵里が実によくやってくれているよ。君が錯乱したせいでショックを受けた早織の心を、彼女がケアしてくれている」
絵里。
その名前が頭の中を漂った。絵里って誰?
頭がずきずきと脈打つ。左目の奥に鋭い痛みが走った。
「絵里……あの学生の?」私はうわ言のように呟いた。
「俺のアシスタントだ」雅弘は声を尖らせて訂正した。「いい加減にしろ。そういうところだぞ。だから俺たちは離れたんだ。君の執着心にはうんざりだ」
「ここ……どこ?」私は囁き、部屋を見回した。白い壁が呼吸しているかのように、脈打ちながら迫ってくる。
画面の中の雅弘が眉をひそめた。「病院に決まってるだろ、晴美。おい、薬でもやってるのか?」
「私……ここまでどうやって来たか、覚えてないの」
「脳に損傷があるからだ。医者から聞いたよ。記憶が飛ぶことがあるとな」雅弘の顔が冷笑に歪んだ。「都合がいい話だな? 忘れられるわけだ。君がどれだけ俺たちに喚き散らしたか。あの花瓶を投げつけたことも。車に乗り込む前の君が、まるで悪霊に取り憑かれた魔女みたいだったことも」
私が? 花瓶を投げた?
記憶を手繰り寄せようとしたが、そこにあるのは霧だけだった。分厚い、灰色の霧だ。
ぼやけていて見えない。
「……なんとなく、思い出してきた気がする」私は嘘をついた。怖かった。もし覚えていないとしたら、彼の言う通りなのだろうか? 私は狂っているの?
「いいか、よく聞け」雅弘は言った。「早織には連絡するな。俺にも二度とかけてくるな。三ヶ月後には戻る。それまでは、そこでおとなしく頭を治すんだ。もし勝手に退院したり、俺たちを追ってきたりしたら……強制入院させるからな。事故の報告書は手元にあるんだ、晴美。君が自分自身を傷つける危険人物だという証拠は揃っている」
「雅弘、お願い。怖いの。私、一人ぼっちなのよ」
「自業自得だ」
彼が画面に手を伸ばした。
「待って!」私は叫んだ。「雅弘、お願い!」
画面が暗転した。
黒いガラスに自分の顔が映る。髪は血で固まり、目は窪み、その下にはどす黒い隈ができている。まるで幽霊だ。
誰からも必要とされない幽霊。
ドアが再び開いた。佐藤が食事のトレイを持って戻ってきた。
彼女は私の手にある携帯と、真っ暗な画面を見た。そして、私の頬を音もなく伝う涙に気づいた。
「切られちゃった?」彼女は優しく尋ねた。
私は頷いた。
「男ってやつは」彼女は呟き、必要以上に強くトレイを置いた。「中にはね、生きている価値もないようなクズもいるのよ」
彼女は私の枕を直してくれた。「何か食べなさい。体力をつけなきゃ」
「どうして?」私は尋ねた。「何の意味があるの?」
「だって」佐藤は顔を近づけて言った。「元気にならなきゃ、やり返せないじゃない」
私は彼女を見た。
やり返す。
その言葉が、空洞になった心の中で反響した。
「思い出せないの……」私は頭を抱えて再び囁いた。「どうして私があんなに怒っていたのか、思い出せない」
「きっと思い出すわ」佐藤は言った。「トラウマは自分を守るために記憶を隠すことがあるの。でも、必ず戻ってくる」
彼女はまた私を一人にして出て行った。
私は横になり、目を閉じた。早織の顔を思い浮かべようとしたが、輪郭がぼやけてしまう。失った赤ちゃんのことを思おうとしても、そこには何もない。ただの虚無だ。
私は手を強く握りしめた。点滴のチューブが皮膚を引っ張る。
思い出すんだ。思い出さなきゃいけない。
そして思い出した時こそ……ただではおかない。
