第2章

 「ここが俺の部屋だ」ケンジは廊下で立ち止まり、一二四七号室を指差した。

 どうして彼についてここまで来てしまったのか、自分でも分からない。コーヒーのカフェインのせいか、それともあの黒い瞳のせいか。あるいは、安定していて守ってくれる男性を求める、私の心の奥底にある渇望のせいかもしれない。

 「素敵な部屋ね」と私は言った。実際は軍の兵舎みたいに殺風景な部屋だったけれど。ベッドが一つ、椅子が一つ、そして隅にスーツケースが一つ、きちんと置かれているだけ。

 「大した物は必要ないんだ」彼はそう言うと、私の方を向いた。「アキ、君に言っておくべきことがある」

 『来た。どうせ彼女がいるとか、奥さんがいるとか、実は連続殺人鬼だとか言うんでしょ。どうしてイケメンっていつも問題を抱えてるわけ?』

 「何?」

 「俺は……こういうのがあまり得意じゃないんだ」彼はちょっと気まずそうに言った。「デートとか、女性と話すこととか。そういうの全部」

 私は瞬きした。「冗談でしょ」

 「冗談だったらよかったんだが。前の彼女には、俺と付き合うのはロボットと付き合ってるみたいだって言われた。すごく退屈なロボットとね」

 『誠実な男。ベガスで。二〇二四年に。それに日系の人、私、宝くじにでも当たった?』

 私は一歩近づいた。「でも、ロボットは新しいプログラムを勉強できるでしょ?」

 彼は私の心臓が跳ね上がるような表情で私を見つめた。「ああ、そうだな。できるだろうな」

 こうして見ると、私の方がオープンなアメリカ人で、彼の方が保守的な日本人みたい。

 そして、彼は私にキスをした。

 映画みたいに完璧で息が合ったキスではなかった。彼は少し緊張していて、私は少し酔っていた。でも、胸の中で何かが爆発した。花火みたいに。

 「けんじ」私は彼の唇に囁いた。

 「うん?」

 「ロボットも、案外悪くないかもね」

 目が覚めると、世界が回っていた。比喩じゃなくて、文字通り。まるで洗濯機の中にいるみたいに、ぐるぐると。

 「アキ? 起きてるか?」

 ケンジの声は遠くから聞こえたけれど、実際には彼はベッドの端に座っていた。二日酔いのせいで、何もかもがぼやけて遠くに感じられた。

 「今、何時?」私の声はガラガラにかすれていた。

 「朝の七時だ。話がある」

 『話って何? 昨日の夜、私たちは……ああ、そうか。あれをしたんだ。それから……待って、なんでエルヴィスの格好をした人の記憶があるんだろう? それに音楽も?』

 ゆっくりと身を起こすと、ようやく世界の回転が止まった。部屋には見覚えのない物があった。花。白いバラ。それに……。

 「けんじ」私の声は小さくなった。「どうしてナイトスタンドにウェディングブーケがあるの?」

 彼は一枚の紙を掲げた。公的な書類だ。

 「どうやら俺たち、午前三時に結婚したらしいからだ」

 時が止まった。私の脳がその情報を処理するのを拒否した。

 「私たち、何ですって?」

 「結婚したんだ。リトル・チャペル・オブ・ラブで。エルヴィスが式を執り行った」彼は穴を掘って隠れたいというような顔をしていた。「何か覚えてるか?」

 断片的な記憶が蘇ってきた。ケンジが衝動的なことなんてしたことがないと言っていたこと。私が試してみるべきだと言ったこと。通りでネオンのチャペルの看板を見たこと。私が「何かクレイジーなことしましょうよ」と言ったこと。

 「なんてこと」私は両手で顔を覆った。「うそでしょ、信じられない、ああ、なぜ」

 「アキ、聞いてくれ――」

 「私たち、結婚したの?」私は指の隙間から彼を見た。「本当に結婚してるの?」

 「法的には、そうだ。ネバダ州では、そう。エルヴィスのそっくりさん、ジェリーによれば、そうだ」

 『酔っ払って知り合って六時間も経ってない警察官と結婚しちゃった。お母さんは絶対に私を縛って日本に連れ戻すわ、そしてお説教の嵐よ。ああああ、これってもう異国でちょっと羽目を外すレベルじゃないわよ!』

 「正気じゃない」私は言った。「絶対に正気じゃない」

 「ああ」ケンジも同意した。「そうだな」

 「どうすればいいの?」

 彼は長い間黙っていた。それから言った。「分からない。結婚なんてしたことないからな」

 「私もよ!」

 私たちはただそこに座っていた。突然、法的に結ばれてしまった、まったくの他人同士。

 「ながせ けんじ?」

 「ケンジ・ナガセでしょ?ていうかあなた、純粋な日本人だったの?」

 「漢字は?」

 彼は少し困惑している。「漢字?」

 「年上の人に教わったでしょ?あなたの名前の漢字、ケンジ・ナガセじゃなくて、ながせ けんじのよ」 「そういえば、おじいさんに確かに教わったな」彼は手近にあった紙を取り、制服のポケットに入れていたペンで、歪んではいるものの確かに漢字の名前『長瀬賢治』を書いた

 「あなたは?」

 「鈴木。鈴木だった、かな。今は……長瀬になったな」私もその紙に自分の名前の漢字を書いた。

 『長瀬秋子、アメリカで結婚したのに、苗字はまだ日本人のままなのか。そういえばこれでグリーンカードの申請ができるんだっけ?』私はそんなとりとめのないことを考えていた

 「それで」ケンジがようやく口を開いた。「ナガセ奥さん。これからどうする?」

 私は結婚証明書を見て、それから彼を見た。絵文字の使い方も知らないこのハンサムで誠実な男性が、今や私の夫なのだ。

 「そうね、長瀬さん」私は平静を装って言った。「とりあえず、お互いがこの状況に耐えられるかどうか確かめてみるべきじゃない?」

 彼は頷いた。「賛成だ。だが、その前に――」彼は立ち上がってミニバーの方へ歩いて行った。「コーヒーはいるか? 今度は本物のコーヒーだ。カジノのあれとは違う」

 私は彼を見ていた。突然私の人生に現れたこの男性を。二十四時間前、私はシングルの鈴木秋子で、最大の悩みはインスタグラムのアルゴリズム変更だった。今や私は長瀬秋子。警官の夫がいて、昨夜自分の部屋に戻らなかった理由を説明する必要がある。

 「ええ」私は言った。「コーヒー、いいわね」

 「それから、あきって呼んで」

 「ずっとそう呼んでるじゃないか?」

 「アキじゃなくて、あきよ」

 「違いがあるのか?」

 「当然あるわよ!これからあなたの発音をしっかり直してあげなきゃね!覚悟しなさい!」

 「勘弁してくれよ、アメリカにいるのに日本語を勉強するのか?」

 『お母さんはいつも言ってた。人生は驚きに満ちているって。こういうサプライズを意図していたとは思えないけど……まあ、これからもよろしくね、長瀬賢治さん』

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