第2章
沈村薫子は鈴原靖との通話を切ると、車の中でずっと座り込んでいた。
もし、この1か月のうちに藤原智史が振り向いてくれるなら——ほんの少しでも。
沈村薫子は苦く笑って、首を横に振る。
分かりすぎるほど分かっている。あの人は、振り向かない。
それでも、30日は待ちたかった。
彼のためじゃない。自分のために。
30日待ち切れたら、きっと完全に諦められる。
きれいさっぱり、未練ひとつ残さずに去れる。
沈村薫子が車を走らせて帰宅したのは、夜9時を回っていた。
ドアを開けても真っ暗で、藤原智史がいないのは予想通り。
書斎へ向かい、1年前に藤原智史が投げつけてきた離婚協議書を引き出しから引っぱり出す。
紙は少し黄ばんでいた。あのときは目を通すことすらせず、奥に押し込んだ。見なければ、何も起きていないことにできる気がしたから。
沈村薫子は瞬きをひとつして、藤原智史の署名の上を指先でそっとなぞった。
鋭い筆致。冷たくて、容赦がない。まるで、本人そのもの。
何度も、何度も耐えて。
ようやく、自分の名を書き入れた。
協議書を引き出しに戻し、閉める。
渡すのは出ていく日でいい。もう喧嘩はしたくない。したところで、何も変わらない。
この5年、十分すぎるほど言い合ってきた。最後は、自分でも虚しくなるくらい。
それからの日々、沈村薫子は昼は会社で引き継ぎ、夜は帰宅して荷造りをした。
3日目。クローゼットのいちばん奥から、小さな箱が出てきた。
中に入っていたのはネックレス。ペンダントは二人の名前のローマ字を組み合わせたデザインで、SとFが蔓みたいに絡み合っている。
結婚1周年のとき、藤原智史が自分でデザインしたものだった。
何晩も徹夜して、図面を描き直して、ようやく作った。
真夜中に目が覚めたとき、書斎の灯りがまだ点いていて、彼は机に突っ伏して眠っていた。手元には描きかけのデザイン画。
翌日、完成品を渡されたとき、彼の目の下は青黒かった。
「世界に一つ。お前だけのだ」
そう言われて、沈村薫子は泣いた。
それが永遠だと、信じた。
——なのに、今は?
胸の奥が酸っぱく膨らんで、沈村薫子はネックレスをベッドサイドにそっと置いた。
4年つけ続けたせいでチェーンは少し古びている。明日メンテナンスに出して、整えてから一緒に持っていこう。
……彼が残した、唯一の「思い出」だから。
翌日の午後、沈村薫子はモールへ受け取りに行った。
宝飾店の店員は彼女の顔を見るなり、どこか歯切れ悪く口を開く。
「沈村さん……そのネックレスなんですが、藤原さんが先ほど引き取られました」
「……引き取った?」
「はい。最近あまり身につけていらっしゃらないので、お店に置いておくのはもったいないと……」
店員は沈村薫子の様子をうかがいながら続けた。
「お友達にプレゼントする、とおっしゃっていました」
沈村薫子はバッグの持ち手をきゅっと握りしめる。
何も言えないまま、店を出た。
向かいにも宝飾店がある。帰ろうとして——ふと、視界の端に見慣れた姿が映った。
藤原智史がカウンター前に立っている。
その腕に絡みつくのは坂原千尋。
そして彼女の首には——沈村薫子のネックレス。
坂原千尋が鏡を見ながら首を傾げる。
「智史さん、これ似合う? ちょっと古くさい気もするけど」
藤原智史はちらりと見ただけだった。
「気に入らないなら別のにしろ」
「でも、あなたがくれた初めてのプレゼントだもん。残したい」
甘えるように腕を揺らし、ふと思い出したように尋ねる。
「ねえ、このSとFって何? 智史さんのイニシャルってFだよね?」
藤原智史の表情が一瞬だけ固まった。
「適当に作った。意味はない」
沈村薫子は入口で立ち尽くし、目の奥が熱く滲んだ。
SとF。自分と彼の名前。
それが今は、別の女の首にぶら下がり——「意味はない」。
坂原千尋が顔を上げ、沈村薫子を見つけて目を見開く。
「……兄嫁?」
反射的に首元を押さえる。
「どうしてここに……」
藤原智史も振り返り、眉をひそめた。
沈村薫子はネックレスを見つめたまま、掠れた声を落とす。
「それ……私のネックレス」
坂原千尋は慌てて藤原智史の背後へ隠れた。
「智史さん、知らなかったの。本当に知らなかった……じゃあ外して返すね」
そう言って手を伸ばすが、動きが乱れる。
「外すな」
藤原智史が彼女の手を押さえ、沈村薫子を睨んだ。
「ネックレス一本だぞ。大げさだな」
沈村薫子は信じられなかった。
「あれは……あなたが自分でデザインしたのに」
「出来も大したことない」
藤原智史は鼻で笑う。
「こいつが気に入ったならやる。お前も欲しいなら、また作ってやればいいだろ」
また作る。
可笑しくて仕方がなかった。
徹夜して、一筆一筆引いて作った、世界に一つのものだったのに。
彼の口ぶりは、安物の小物を買い直すみたいに軽い。
沈村薫子は息を吸い込む。
「……あなた、自分が浮気するのはまだしも。これまで彼女に渡すの?」
縋るべきじゃないと分かっているのに、止められなかった。
これが最後の「念」だった。
写真も消した。贈り物も捨てた。指輪も外した。
残っていたのはこれだけ。彼が「心を込めた」唯一の証。
それすら奪われる。
藤原智史は赤い目元の沈村薫子を見て、露骨にうんざりした顔になる。
「沈村薫子、いい加減にしろ。藤原奥様の名分はやったし、離婚だって無理にさせてない。まだ何が欲しい?」
声は氷みたいに冷たい。
「俺がもう愛してないのに、愛してるって言えば満足か?」
沈村薫子は涙をこらえたまま言った。
「……愛してるって言ってなんて、頼んでない」
「じゃあ今、何を騒いでる?」
藤原智史は眉を寄せる。
「一本のネックレスだ。気に入るならまた作ればいい」
「違う……」
沈村薫子は首を振る。
「違うって、あなた分かってるはずでしょ!」
坂原千尋が怯えた顔で顔を出す。
「兄嫁、怒らないで。ほんとに知らなかったの。今すぐ外して返すね」
手間取って外そうとして、爪が首を引っ掻き、赤い線がついた。
「っ……」
藤原智史が手を押さえた。
「外すな」
そして沈村薫子に向ける視線は嫌悪そのものだった。
「ほら見ろ。お前が脅すから、こんなに怯えてる」
沈村薫子は彼を見た。
胸の奥で、乾いた笑いが鳴る。
男が心変わりすれば、過去は砂になる。沈むのは自分だけ。
……いい。どうせもう出ていく。
残りは二十数日。すぐだ。
けれど次の瞬間。
坂原千尋がネックレスを外し、手のひらに乗せて差し出した。
「兄嫁……返す。ごめんなさい」
その直後——ネックレスは床に落とされ、SとFが真っ二つに割れた。
「きゃ……わ、わざとじゃないの。兄嫁って大人だし、怒らないよね?」
沈村薫子は床の破片を見つめ、頭の中がぶわっと鳴った。
もう抑えられない。
沈村薫子は勢いよく手を上げ、坂原千尋の頬を打った。
坂原千尋は頬を押さえ、呆然と立ち尽くす。
藤原智史の顔色が一瞬で沈み、沈村薫子の手首を強く掴んだ。
「頭がおかしいのか?」
沈村薫子の目は血みたいに赤い。
「……殴られて当然じゃない?」
藤原智史の眼底に陰が落ちる。
「沈村薫子。今すぐ謝れ」
「謝らない」
「沈村薫子」
声を低く絞り出す。
「謝らないなら、そのあと一緒にバリ島へ行く話はなしだ」
沈村薫子は息を止めた。
バリ島。
何度も行きたいと言った場所。彼は意味を知っているのに、それを脅しに使う。
可笑しくて、笑えてくる。
「いいよ」
沈村薫子は口角を引いた。
「行かないなら行かない」
沈村薫子は手首を振りほどき、背を向けた。
坂原千尋が藤原智史の袖を掴む。
「智史さん、兄嫁を責めないで。私が悪いの。私がつけちゃって……」
藤原智史は沈村薫子の背中を見て、理由のない苛立ちを噛み殺すみたいに言った。
「泣くな。お前のせいじゃない」
坂原千尋はしゃくり上げながら続ける。
「でも……兄嫁、きっとすごく傷ついてる」
「何が傷つくんだ」
藤原智史は冷笑した。
「俺は何も不自由させてない」
そう言いながら、目は思わず入口のほうへ向いた。
沈村薫子の姿はもうない。背中すら見えない。
胸に残るのは、言葉にできない苛立ちだけ。
坂原千尋が囁く。
「兄嫁って、智史さんのことが大好きだから怒るんだよ。気を引きたいんだと思う」
藤原智史は黙った。
そうだ。沈村薫子はきっと、わざとだ。自分の注意を引こうとしている。
自分から離れて、うまく生きられるはずがない。
藤原智史は、そう信じ切っていた。
