第3章
沈村薫子の母の命日は月末だった。
例年なら、藤原智史はどれだけ忙しくても墓参りに付き合ってくれた。
けれど今年、薫子は家を出るとき、彼を呼ばなかった。
来るのか来ないのかなんて分からないし、知りたくもない。
聞いたところで、自分が惨めになるだけだ。
薫子は一人で車を出し、花屋で白い薔薇を一束買った。
墓地に着き、階段を上る。風が強く、髪が乱れた。
墓碑の前で足が止まる。
すでに花が供えられている。白薔薇。手にしているものと、まったく同じ。
そして隣に、黒いコートの男がいた。
背筋の伸びた背中。かがんで、花束の枝葉を整えている。
……藤原智史。
薫子は立ち尽くした。
来るとは思わなかった。しかも、自分より先に着いているなんて。
智史は足音に気づいて振り返り、薫子を見る。
「来たか」
「……うん」
薫子は近づき、手にしていた花を墓碑の横に置いた。
白薔薇が二束、並ぶ。まるで双子みたいに。
薫子はしゃがみ、写真の中の母の笑顔を見つめた。鼻の奥がつんとする。
「……お母さん。来たよ」
智史は隣に立ったまま、何も言わない。去りもしない。
横目で見ると、彼は頬の線をきつく引き結び、何かを考え込んでいるようだった。
胸が、ふっと苦く疼く。
来た。……来てくれた。
この五年、心が冷えるようなことをどれだけされても。
彼を見た瞬間、まだ揺れる自分がいる。
もしかして──まだ、少しは……?
そんなふうに思ってしまう自分が滑稽だと分かっているのに、止められない。
五年。愛してきた五年は、簡単には消えない。
「……あなた」
声が少し掠れた。
「どうして来たの?」
智史は薫子を一瞥する。
「今日は、お前の母親の命日だ」
薫子は視線を落とし、何も言わなかった。
墓前で写真を見つめ、長い沈黙。
智史も同じ距離で立つ。近すぎず、遠すぎず。
風が吹き、彼の身体から馴染みのある雪松の香りが流れてきた。
二人は十数分、言葉もなく立ち尽くす。
薫子が息を吸い、「……帰ろう」と言いかけた、そのとき。
智史のスマホが鳴った。
画面を見てすぐに出る。
「……もしもし」
受話口から、坂原千尋の泣き叫ぶ声が飛び込んでくる。
「智史さん! 助けて! 閉じ込められたの! ここ、どこか分からない!」
智史の声が硬くなる。
「どこだ?」
「分からない……怖い、智史さん、早く来て……!」
息も絶え絶えの泣き声。
智史はスマホを握る指の節が白くなる。
「大丈夫だ。位置情報を送れ。すぐ行く」
電話を切り、踵を返した。
二歩ほど行ってから立ち止まり、薫子を振り返る。
「お前はタクシーで帰れ」
薫子は彼を見た。
「……拉致?」
「そうだ」
智史はもう階段を下り始めている。
薫子は一歩追う。
「拉致されてるのに、電話できるの?」
智史が振り返った。目が刃みたいに冷たい。
「何が言いたい」
薫子は唇を噛む。
「本当に拉致なら、スマホは取り上げられるはずだと思って……」
「……つまり?」
智史の眼底に怒りが灯る。
「嘘だって言いたいのか」
「そうじゃなくて、ただ……」
「ただ?」
智史が遮る。
「お前も、いちいちくだらないことで騒ぐ女だと思ってるのか?」
薫子の顔色が一瞬で白くなる。
「沈村薫子」
智史は感情を露わにして言い募る。
「人が拉致されてるのに、そんなことを気にするのか? お前が千尋と比べられると思うのか?」
──比べられると思うのか。
薫子は言葉を失った。
かつて彼は、母の墓前で膝をつき「必ず幸せにする」と誓った男だ。
それが今、彼女は不相応だと突き放す。
心が冷え切ると、不思議なくらい静かになる。
「行って」
薫子は驚くほど淡々と言った。
「……私は一人で帰る」
智史は一度だけ薫子を見る。
だが結局何も言わず、大股で去っていった。
薫子の感情など重要じゃない。千尋が危険だ。
戻ったら適当に宥めればいい。今までだって、そうしてきた。
薫子はしゃがみ、写真の中の母の頬にそっと触れた。
「……お母さん。あなたの言う通りだね」
自嘲気味に笑う。
「男が心変わりしたら、もう引き戻せない」
風が吹き、白薔薇の花弁がかすかに震える。
「でも、もういい。……分かったから。二十日後、自由にしてあげる」
薫子は墓地にしばらく立ち尽くしてから、背を向けた。
家に戻るころには日が暮れていた。
クローゼットを開け、荷造りを始める。
途中でドアが乱暴に開いた。
智史が大股で近づき、前触れもなく薫子の頬を叩いた。
ぱぁん、と乾いた音。
「沈村薫子……」
智史の目は怒りで濁っている。
「お前があいつを攫わせたんだろ!」
