第6章

藤原祥子は容赦なく坂原千尋の髪を掴み、そのまま脇へ引きずった。

坂原千尋は膝から崩れ、鈍い音を立てて床に膝を打ちつける。

「うちの兄嫁の椅子に、あんたみたいな安い女が座れると思った? 何様よ。会社まで来て騒ぐとか、身の程知らずにもほどがある!」

祥子は体裁なんて完全に捨てていた。髪を掴んだまま、オフィスの外へ引っ張っていく。

「いたっ……! 智史さん、助けて、智史さんっ!」

千尋は涙をぼろぼろこぼし、みっともなく床をばたつかせて抵抗する。

廊下の社員たちが息を呑んだ。誰も止めようとはしない。目の奥だけが、妙に生き生きと光っている。

――正直、スカッとした。そんな空気。

「藤原祥子! やめろ!」

藤原智史がようやく我に返ったように怒鳴り、大股で駆け寄る。祥子の手首を乱暴に掴み、そのまま力任せに振り払った。

「お前、頭おかしいのか」

「おかしいのは兄さんでしょ!」

祥子はよろめいて数歩下がり、信じられない顔で兄を睨みつけた。

「売女みたいな野良女のために、あたしを突き飛ばす? 兄嫁を追い出して、兄さんのほうが狂ってる!」

智史は地面に倒れていた千尋を起こし、背に庇う。額の青筋がぴくぴくと跳ねた。

そのとき、沈村薫子が忘れ物を取りに戻ってきた。

オフィスの前に野次馬が群れているのを見て眉をひそめ、訝しげに人垣をかき分ける。――そして目に飛び込んできたのは、祥子が女を引きずっている光景だった。

薫子が息を呑むより早く、智史が彼女の存在に気づく。

まるで八つ当たりの的を見つけたみたいに、瞬時に矛先を薫子へ向けた。

「沈村薫子、これがお前の手口か!」

智史は指を突きつけ、唾を飛ばす勢いで喚き散らす。

「自分は謝りもしないくせに、祥子を焚きつけて代わりにやらせたんだろ! 虚栄心が強くて、嫉妬深いくせに、最低限の躾すらない!」

薫子は、呪いでもかけられたみたいな男を、ただ静かに見返した。

「藤原智史、病気?」

祥子が怒鳴り返す。

「兄嫁は関係ない! あたしがあいつのツラ見てムカついただけ! クズが調子乗んなって話!」

「黙れ」

智史は妹を一喝し、侮蔑の目で薫子を上から下まで舐めるように見た。

「沈村薫子。昔は頑固なだけだと思ってたが……お前は根っこから腐ってる」

そして冷笑し、言葉を一字ずつ、薫子の心臓にねじ込むみたいに吐き捨てた。

「そうやって手段を選ばず人を潰すところ……お前の母親とそっくりだ。同じように下品だな」

祥子が凍りつき、反射的に口元を押さえた。

薫子にとって母のことは、触れられたら終わりの逆鱗だ。

智史だって知っていた。母の墓前で泣き崩れる薫子を抱き、誰がその件を口にしても許さないと――そう誓った男だ。

その一番鋭い刃を、今、自分の手で突き刺した。

薫子はその場で立ち尽くし、ひどく静かに智史を見た。

澄んだ瞳の中で、あらゆる感情が、ぱりんと音を立てて砕け散る。

薫子の母は名家の令嬢だった。だが、腹に子を宿してのし上がろうとする女に追い詰められ、権力者を巻き込んだ中傷に晒され、妊娠中も執拗に精神を削られ続けた。

重い鬱を患い、豪雨の夜――28階のベランダから身を投げた。

あのとき薫子は10歳。

母の死は、彼女の人生の最奥に膿む、最も深い傷だった。

そして今。

5年愛し、5年支え、5年、何もかも差し出した夫が――愛人のために妻を殴り、辞職に追い込み、最後には心まで殺しに来た。

「……そう」

薫子は小さく笑った。

「あなたは、私をそう見てたんだ」

顔を上げる。声は驚くほど淡々としていた。

「藤原智史。今日やっと分かった。あなたが何者なのか」

薫子は彼らを一度も振り返らない。背を向け、まっすぐ外へ歩き出す。

迷いなく去っていく背中を見て、智史の心臓がひゅっと縮んだ。理由の分からない恐怖が、胸いっぱいに広がる。

――今、俺は何を言った?

母親のことで刺した? あいつに?

智史の顔から血の気が引く。違う、そんなつもりじゃない。祥子に腹が立って、薫子を折らせたかっただけで――。

「沈村薫子!」

反射的に追いかけようとした。たった一歩、前へ。

だが、脚に絡みつく腕があった。

「智史さん……痛い……お腹が痛い……」

坂原千尋が床で丸まり、涙でぐしゃぐしゃの顔で智史のズボンを掴んで離さない。

「行かないで……怖い……」

智史の足は止まる。

顔を上げたとき、薫子の姿はもうどこにもなかった。

祥子は目を赤くして震えた。

「藤原智史、あんた人間じゃない!」

怒りのままゴミ箱を蹴り、兄を指さす。

「今日みたいなことして、絶対後悔する! もう二度と兄さんなんて呼ばない!」

そう言い捨て、祥子も踵を返して飛び出していった。怒りを引きずったまま、実家へ。

……

2時間後。藤原家の別邸。

沈村薫子と藤原智史の新居。

かつて薫子が丁寧に整えた温もりは、いまや全部、滑稽で吐き気がするだけだった。

薫子は無表情でドレッシングルームへ入り、黒い大型スーツケースを引っ張り出す。

普段着を数着。デザインの専門書。手稿。裁断用具一式。

それだけを詰めた。

藤原智史のものは――視界に入っても、要らない。

宝飾品を一瞥し、冷たく視線を戻す。

全部ゴミ。箱を汚す価値もない。

宝石箱の底を整理し、身分証を取り出そうとしたとき。

指先に、冷たい木箱が触れた。

薫子の動きが止まる。

紫檀の箱を開けると、翠の滴みたいに艶のある、最高級の帝王緑の翡翠の腕輪が静かに横たわっていた。

5年前。藤原家へ嫁いだ日、藤原家の祖父が直々に渡してくれた家宝。

『薫子や。智史は頑固だが、お前が側で支えてくれるなら爺は安心だ。この腕輪は藤原家の当主の妻にしか渡さない。大事にしなさい』

あの慈愛ある顔が、脳裏に浮かぶ。

計算だらけの藤原家で、祖父だけが温もりと尊重をくれた。

薫子は伏し目になり、冷たい翡翠を指でそっと撫でた。

藤原家のものは一切持っていかない。

数日後、祖父の誕生日に実家へ行き、この腕輪を返す――そのついでに、離婚も済ませる。

薫子は箱を閉じた。

荷造りを終え、スーツケースの持ち手を掴む。

5年住んだ家を最後に見回し、踵を返して玄関へ向かった。

そのとき。

電子錠が軽い音を鳴らし、ドアが外から開いた。

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