第7章
藤原智史はスーツ姿のまま玄関の外に立っていた。眉間には隠しきれない疲れと苛立ちが刻まれている。
顔を上げた瞬間、沈村薫子の氷みたいに冷えた表情とぶつかった。
さらに視線を落とす。彼女の手元には、巨大な黒いスーツケース。
藤原智史の瞳孔が、きゅっと縮む。
「……何してるんだ」
大股で室内に入り、反手でドアを閉める。スーツケースを睨みつけるようにして、張り詰めた声を落とした。
「また家出ごっこか? 沈村薫子、今日の会社の件……俺は譲ってやっただろ。いつまで騒ぐつもりだ」
沈村薫子は目の前の男を見た。
後ろめたさを隠しながら、なお上から目線で施すみたいに振る舞う。その滑稽さに、笑いすら出ない。
「譲った?」沈村薫子は赤い唇をわずかに開いた。声は凪いだ水面みたいに平坦だった。「藤原智史、言葉が通じない? 私はもう辞職した。離婚協議書にも署名した。荷物をまとめて出ていくだけ。何か問題?」
「離婚だと? 俺は同意してない!」
藤原智史は声を荒げた。
胸の底から這い上がる得体の知れない恐怖を、力で押し潰すみたいに。
けれど、沈村薫子の失望した目を見た途端、今日会社で彼女の母を侮辱した場面が脳裏に蘇る。
喉仏がごくりと動いた。彼は視線を逸らし、口調だけを落とす。
「……今日の会社では言い過ぎた。祥子が突っ走って、千尋も怪我して……俺も焦って、口が滑っただけだ」
そう言いながらジャケットを脱ぎ、白いシャツの袖をまくる。
「意地張るな。ここ数日、辛かったのは分かってる」
そして、これまで見せたこともないような、ほとんど宥める声になった。
「スーツケースは戻せ。お前、俺の作る酢豚が好きだろ。今日は会社に戻らない。家で飯を作る。俺が謝る。……それでいいだろ」
その言葉に、沈村薫子の指がスーツケースの取っ手の上で、わずかに固まった。
藤原智史が料理――?
結婚して五年。彼が台所に立った回数など、指で数えられる。
最後に作ったのは、彼のために資金調達の席で無理をして、胃から出血して入院し、帰宅した夜。真っ赤な目で粥を煮てくれたとき。
認めたくなくても、「詫びる」という言葉に、穴だらけの心が勝手に、ほんの少しだけ緩んでしまう。
五年。全部を注いだ。彼が世界のすべてだった。
その傲慢な男が、破天荒にも自分から頭を下げ、飯で償うと言う。
沈村薫子は俯いたまま、何も答えなかった。
藤原智史は、その沈黙を「勝ち」だと受け取ったのか、目の奥にかすかな安堵と得意げが走る。
――ほらな。降りる階段を用意してやれば、沈村薫子は降りてくる。
「よし。じゃあ俺はキッチンを見て、冷蔵庫に何が……」
言い終える前に。
「ピピピ――」
玄関の暗証ロックが、急いだ解錠音を鳴らした。
次の瞬間、カチャリ。
ドアが外からぱっと開く。
「智史さん、鍵ちゃんとかけてないよ?」
甘ったるく、柔らかい声と一緒に。
清楚ぶった身なりの坂原千尋が、買い物袋を両手に提えて立っていた。輸入スーパーの袋が二つ。ぱんぱんだ。
坂原千尋は、玄関にいる沈村薫子の存在など見えていないみたいに、室内の異様な空気ごと無視する。
にこにこしながら藤原智史に袋を持ち上げて見せた。
「智史さん、わざわざ買ってきたの。いちばん新鮮なスペアリブ! それから、智史さんの好きな輸入チェリーも!」
そして、わざと甘えた声で。
「ほら、持って。手、ちぎれそう」
沈村薫子は、その光景を見て――ふっと笑った。
謝罪の言葉でほんのわずかに緩んだものが、馬鹿みたいにほどけて消えていく。
ゆっくり藤原智史を見る。怒りはない。ただ、見透かし切った哀しみと嘲りだけ。
「……これが『自分で料理する』ってこと?」
沈村薫子は玄関の女に視線を投げた。「愛人を連れ込んで、私のキッチンを使って。それで『償い』?」
藤原智史の顔が一瞬で固まる。
「変なこと言うな。俺と千尋は、お前が思ってるような関係じゃない」
言い訳をひとつ落とすと、彼は坂原千尋へ向き直った。眉をひそめる。
「千尋、どうして来た」
坂原千尋は、ぱっと目を赤くした。怯えた子鹿みたいに一歩前へ。
「ごめんなさい、沈村薫子さん。智史さんに怒らないで」
委屈を押し殺したみたいな顔で、急いで言葉をつなぐ。
「今日、会社であなたのことで智史さん、すごく落ち込んでて……だから私が、家に帰って仲直りのご飯を作ろうって提案したの」
袋を持ち上げ、健気さを前面に出す。
「沈村薫子さん、私のこと嫌いなのは分かってる。でも智史さんは本当に仲直りしたいんだよ。男の人って料理苦手だし、私、下ごしらえを手伝いに来ただけ。食べ終わったらすぐ帰る。絶対に邪魔しないから!」
――見事な「一途で献身的」芝居。
案の定、藤原智史の中に残っていた後ろめたさがすっと消える。
彼は沈村薫子に、家長面で言い放った。
「聞いたか? 千尋は善意だ。お前は何でも悪く捉えすぎる。言い方がひどい」
沈村薫子は冷えた目で男を見る。
これが、五年愛した夫。
不倫相手を堂々と夫婦の家へ上げ、正妻に感謝しろと言う。
藤原智史は坂原千尋にだけ声を柔らげた。上から与えるみたいに。
「いい。千尋、荷物置け」
それから当然のように続ける。
「お前は客だ。客に料理させるわけないだろ。リビングでテレビでも見てろ」
そして、スーツケースの傍に立つ沈村薫子へ。
「沈村薫子。こっち来て、野菜洗うの手伝え」
沈村薫子は、自分の価値観が二人に踏み潰される気がした。
「客」だと言えば、藤原奥様の体面が守れるとでも思っているのか。
スーツケースの取っ手を握っていた手が、ゆっくりほどけた。
……いい。
この二人が、どこまで醜くなれるのか。最後まで見届けてやる。
「いいよ」
沈村薫子は温度のない笑みを浮かべた。珍しく従順に。
「手伝う」
踵を返し、そのままキッチンへ向かう。
藤原智史は、長く息を吐いた。目の奥にうっすら得意げが差す。
――ほらな。女なんて宥めればいい。
沈村薫子が本気で離婚するわけがない。
キッチン。
沈村薫子は無表情で流し台に立ち、よく研いだ包丁で、坂原千尋が買ってきた輸入スペアリブを手際よく切り分けていく。
藤原智史は隣で野菜を洗いながら、ときどき沈村薫子の横顔を盗み見た。
胸の奥でくすぶっていた、失うかもしれない恐怖が、ようやく腹の底へ沈んでいく。
だが、リビングの坂原千尋は落ち着かなかった。
キッチンから聞こえてくる、二人の「仲がいいみたいな音」に、嫉妬が煮え立つ。
彼女は客として来たわけじゃない。
