第3章
あの夜、緒方智也は帰ってこなかった。
未明のことだ。小笠原玲奈がインスタグラムを更新した。
『もう二度と、他の人の手は握らないって言ったくせに』
添付された写真は、固く結ばれた二つの手。
手の甲に痣があるその手は、間違いなく緒方智也のものだった。
そして、この投稿で言うところの「他の人」とは——私のことだ。
投稿から十分もしないうちに、その話題はトレンド入りを果たした。
私のアンチたちが、こぞって小笠原玲奈のコメント欄に雪崩れ込む。
『玲奈ちゃん頑張って! 緒方Pとお似合いなのは玲奈ちゃんだけ! 絶対復縁して!』
『倫理観とかどうでもいい、俺は緒方の不倫を支持するわ! 相原沙耶のあのすました顔、以前から鼻についてたんだよ!』
数えきれないほどの人間が、私が嗤いものになる瞬間を待ち構えていた。
一方で、緒方智也のアカウントに書き込むファンもいた。
『緒方さん、これ違いますよね? ずっと見てきましたけど、奥さんがあんなに尽くしてるのに……裏切るようなことしないでくださいよ!』
私と緒方智也は夫婦でのCM契約をいくつも抱えている。違約金の額は恐ろしいほどだ。こういうスキャンダルが一番まずい。
マネージャーの荻野さんは緒方智也と連絡がつかず、仕方なく私に電話をかけてきた。今すぐ二人が一緒にいるような写真をアップして、ファンを安心させてほしいと言うのだ。
スマートフォンのアルバムをスクロールして、私は指を止めた。私たちのツーショット写真は、惨めになるほど少なかった。
しかもその写真の中で笑っているのは、いつも私一人だけ。
結局選んだのは、ずいぶん前に撮った一枚。スタンドライトの明かりの下で、緒方智也が本を読んでいる写真だ。
薄暗い光に包まれた彼の横顔は、よく夢に出てくる、私を泣かせてばかりのあの人にそっくりだった。
写真をアップすると、すぐにネットユーザーからの反応があった。
『ほら見ろ! 緒方さんは家で奥さんと一緒じゃん! 不倫だなんだって騒いだ奴、出てこいよ!』
世間の風向きが一変し、小笠原玲奈へのバッシングが始まる。恥知らず、売名行為だと罵る声が溢れた。
だが数分後、緒方智也が小笠原玲奈のインスタグラムを引用してシェアした。
あの手を繋いだ写真の下に、彼が添えたのはたった一言。
『俺だ』
そうやって彼は、彼女と一緒にいることを認めたのだ。衆人環視の中で私の嘘を暴き、恥をかかせた。
彼はまたしても、小笠原玲奈のために私を切り捨てたのだ。
小笠原玲奈のファンたちが、狂ったように私のアカウントへ押し寄せる。
『見栄張って自爆とか、マジ笑える。大嘘つき』
『玲奈ちゃんが三年も猶予くれたのに、緒方Pの心一つ掴めないとか、ホント無能』
誰が、緒方智也の心が欲しいなんて言った?
私はスマートフォンに入っていた彼に関するデータを、すべて削除した。
潮時だ。離婚しよう。
