第6章
手術の前日、私は急に胸騒ぎがして落ち着かなくなった。
亡き母が遺してくれた唯一の形見——あのお守りが、まだ家の金庫に入ったままだと思い出したのだ。
私はそれを取りに帰ることにした。
だが、玄関の前に立って初めて気づく。電子錠の暗証番号が、すでに変えられていたことに。
自分の家の前で閉め出されている。その状況が、あまりにも滑稽に思えた。
腹の底に煮えくり返る怒りをぐっと飲み込み、私は緒方智也に電話をかける。
しかし、電話に出たのは小笠原玲奈だった。
彼女の声には、隠しきれない優越感が滲んでいる。
「あら、沙耶さん。今日はあたしの誕生日なの。智也が隅田川花火大会の特等席を取ってくれたから、今夜は帰らないわ」
「『一番愛する人と花火が見たい』って前に言ったんだけど、まさか本当に覚えててくれるなんて。しかも、一番いい席を用意してくれるなんてね」
「でもぉ、暗証番号は教えられないかな。だってあたしたち留守だし、部外者のあなたが勝手に入るのはちょっと……ねえ?」
彼女の戯言に付き合う気になれず、私は無言で通話を切った。そして、今日のあの日付を電子錠に入力する。
『ピッ』という電子音と共に、ドアが開いた。
やはり、暗証番号は小笠原玲奈の誕生日だったのだ。
家の中は、もはや私が住んでいた頃の面影など微塵もなかった。
テレビボードに飾っていた結婚写真は消え、代わりに緒方智也と小笠原玲奈の、青春時代のツーショット写真が置かれている。
写真の中の二人はまだ若く、彼女の肩を抱く緒方智也は、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。
手塩にかけて育てた花はすべて捨てられ、私の書斎だった部屋は、彼女のためのピアノルームに変えられてしまっている。
私はその場で呆然と立ち尽くし、やがて弾かれたように寝室へと駆け込んでクローゼットを開け放った。目に飛び込んできたのは、私の物ではない派手なレースのネグリジェばかり。
金庫はクローゼットの最下段にある。指紋認証を済ませ、震える手で中の物を一つひとつ取り出した——宝石、現金、書類。
くまなく探した。けれど、母が遺してくれたお守りだけが、どこにもない。
あれは、母との唯一の繋がりだったのに。
小笠原玲奈は、当然それを知っていたはずだ。
だからこそ、処分したのだ。
