第8章 皮肉
宴会場は煌々と明かりが灯され、招待客たちは談笑に花を咲かせている。
綾辻詩織は階上から降りてくると、フロアに視線を巡らせたが、葛城彰人と綾辻華蓮の姿は見当たらなかった。
彼女はその場に立ち尽くす。表情は穏やかだったが、その瞳の奥には深い冷ややかさが浮かんでいた。
『やっぱり、またあの子と一緒に出て行ったのね』彼女は心の中で冷笑し、すぐに視線を外した。
招待客たちの笑い声がホール全体に満ちており、まるで誰も葛城彰人の不在に気づいていないかのようだった。
だが、綾辻詩織は知っていた。篠宮のおばあさまとおじいさまは、必ず気づくと。
案の定、ほどなくして、篠宮のおばあさまが不機嫌そうな顔でこちらへやってきた。
「詩織、彰人はどこだい?」篠宮のおばあさまは彼女の手を取り、その声には隠しきれない不満が滲んでいた。
綾辻詩織は俯き、篠宮のおばあさまに強く握られた手を引き抜くと、手話で伝えたい言葉を形作った。
『用事があって、先に失礼しました』
「用事?」篠宮のおばあさまは眉をひそめ、声に冷たさを帯びさせる。「いつもいつもそうやって。あんたより大事な用事なんて、何があるって言うんだい」
篠宮のおじいさまが近づいてきて、篠宮のおばあさまの肩をぽんと叩き、落ち着いた声で言った。「まあまあ、怒るな。彰人は融通の利かないところがあるから、仕事に真面目すぎるんだろう」
彼はすぐに綾辻詩織の方を向き、少しだけ口調を和らげた。「詩織ちゃん、気にすることないよ。おばあさんも私も、君がいい子だってことはよく分かってる。あいつが君の大切さを分からんのなら、私たちが代わりに灸を据えてやるから」
それを聞き、綾辻詩織の口元に淡い笑みが浮かんだ。
彼女は頷いただけで、何も答えなかった。
宴会が終わる前、綾辻詩織のスマートフォンが一度震えた。
開いてみると、綾辻華蓮からのメッセージだった。
【お姉様、篠宮のおばあさまに気に入られてるからって、それが何? 彰人さんの心が本当に愛しているのは私よ! 彼は篠宮家の体面を気にして離婚しないだけ。忠告してあげるわ、早く物分かり良くなって、もう彰人さんに付きまとわないで】
綾辻詩織が喉から手が出るほど欲しがっている獲物を奪われまいと、行間から挑発が溢れていた。
綾辻詩織は冷ややかに笑うと、指先で素早く返信を打ち込んだ。
【そんなに気になるなら、葛城彰人はあなたに捨ててあげるわ】
返信を受け取った綾辻華蓮は、怒りで頭に血が上りそうだった。
葛城彰人はゴミだとでも言うのか? それを綾辻詩織が自分に捨ててくれるですって?
続いて、綾辻詩織は少し考え、もう一通メッセージを送った。
【離婚のことは、彼に、直接私に言わせなさい!】
これを読んだ綾辻華蓮は、気が気でなくなった。
つまり、お前は余計な口出しをするな、ということではないか。
メッセージを送り終えると、綾辻詩織はスマートフォンを無造作にバッグに入れ、宴会場の中央を見上げた。
周りの照明はきらびやかだが、彼女の瞳には冷めた色しか映っていなかった。
綾辻詩織はそっと目を閉じる。脳裏に、葛城彰人と綾辻華蓮が寄り添って座る光景が浮かんだ。
二人の間の阿吽の呼吸と親密さは、彼女が永遠に立ち入ることのできない世界。
この結婚は、最初から茶番だったのだ。
もう、三角関係に加わりたくない。
今はこの苦しい場所を離れ、そしてC国へ行くという夢を叶えたい。
なぜなら、あの小さな町には、榊伊織の墓碑が静かに佇んでいるのだから。
そこには彼女が焦がれる平穏があり、かつての希望のすべてがあった。
彼女は深く息を吸い込むと、スマートフォンを開き、航空券の情報を確認した。
三日後、彼女はここを去り、このすべてに完全に別れを告げるのだ。
宴会が終わるのを待って、篠宮のおばあさまは綾辻詩織の手を引き、静かな休憩室へと連れて行った。
綾辻詩織は篠宮のおばあさまに促されるまま隣に腰を下ろすと、篠宮のおばあさまは彼女の手を自分の手のひらで慈しむようにきつく握った。
「詩織、おばあさんに何か話したいことがあるんじゃないかい?」篠宮のおばあさまの声は優しかったが、どこか逃れられない真剣さを帯びていた。
綾辻詩織は篠宮のおばあさまの期待に満ちた瞳を見つめ、しばし沈黙した後、ついに手話で語り始めた。「おばあ様、私、彰人さんと離婚したいんです」
彼女のその仕草を見て、篠宮のおばあさまの表情が瞬時に凍りついた。
「どういうことだい?」彼女は目を見開き、声がわずかに上ずる。
綾辻詩織は落ち着いて、もう一度同じ言葉を繰り返した。
『もう話し合いました。彼も離婚に同意しています』
『これが、私たち二人にとって、一番いい結果なのかもしれません』
篠宮のおばあさまは呆然と彼女を見つめ、しばらくしてようやくため息をついた。
彼女の視線が綾辻詩織の顔の上をしばし留まり、瞳の奥に痛ましげな色が浮かぶ。
「詩織、本当に決めたのかい?」その声には、明らかな名残惜しさが含まれていた。
綾辻詩織は頷き、その眼差しは揺るぎなかった。
『はい、おばあ様。もう決めました』
篠宮のおばあさまは手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れた。その声には感慨が滲む。
「知ってるかい? あんたは私の娘によく似ているんだよ」
「あんたを見ていると、まるで自分の娘を見ているような気になるんだ」
綾辻詩織はわずかに固まり、指が動かずにいた。
篠宮のおばあさまが自分を実の娘のように可愛がってくれていることは、分かっている。
彼女もまた、篠宮のおばあさまに十分な敬意を抱いていた。
篠宮のおばあさまはため息をつき、ちらりと篠宮のおじいさまに目をやり、それから綾辻詩織に視線を戻すと、何か適切な理由を探そうとした。
「その件は、あなたのおばあ様にもお伺いを立てないとね。何しろ、うちは婚約で結ばれた家同士だ。あなたのおばあ様の同意なしには、離婚の話は決められないよ」
その言葉を聞き、綾辻詩織の目に合点がいったような光が宿った。
物事は手順通りに進めなければならない。急いては事を仕損じる。
彼女は頷いたが、他に答えようもなかった。
心の中では、この状況なら綾辻華蓮の方が自分より焦るだろうと、すでに分かっていた。
一晩であれだけ挑発的なメッセージを送ってきたのだ。明らかにじっとしていられないのだろう。
帰り道、綾辻詩織は車の窓に寄りかかり、思考を遠くへ飛ばしていた。
彼女にはどうしても分からなかった。なぜ葛城彰人は、なかなか離婚に同意しないのだろうかと。
この結婚に、とっくに何の期待も抱いていないはずなのに。
『見栄のせい、かしら。何しろ彼は、他人が自分をどう見るか、すごく気にする人だから』彼女は心の中で呟いた。
葛城彰人という人間は、何よりも面子を重んじる。
彼女が離婚を切り出すことは、彼に恥をかかせるのと同じことだ。
そんな時、彼が意地になって体面を取り繕おうとするのは当然だろう。
そこまで考えると、綾辻詩織は俯いて冷笑を漏らした。その目には、いくらかの皮肉が滲んでいた。
自分の別荘に戻り、綾辻詩織はドアを開けた。
部屋の中は、すでにすべての調度品が整えられていた。
新婚の家から運び出した品々が、一つ一つきちんと整理されている。
彼女はリビングの中央に立ち、見慣れた品々を見渡したが、なぜか奇妙なよそよそしさを感じた。
かつて二人のものだった生活が、今では彼女一人のものしか残っていない。
部屋の中は恐ろしいほど静まり返っている。
そこに立っていると、彼女はふと、少し居心地の悪さを感じた。
この殺風景な環境が、心に言いようのない圧迫感をもたらす。
彼女はソファのそばに歩み寄って腰を下ろし、ティーテーブルの上に置かれていた日記帳を手に取った。
日記帳の最初のページを開くと、一枚の古い写真が挟まっていた。
写真の中の榊伊織は、満面の笑みを浮かべている。陽の光が彼の上に降り注ぎ、まるで画面全体を明るくしているかのようだった。
彼女はその写真を長い間見つめ、目頭がわずかに熱くなった。
「榊伊織……榊伊織」
心の中で彼の名前を静かに唱える。その瞳は疲れに満ちていた。
『もう少し待ってて。もうすぐ、あなたのそばを守りに行くから』
彼女が物思いに沈んでいると、突然スマートフォンの着信音が鳴り、思考が中断された。
スマートフォンを手に取ると、意外にも以前の主治医からだった。
彼女は一瞬ためらったが、やはり一縷の望みを抱いて電話に出た。
「綾辻さん」医師の声が聞こえてくる。その声はどこか興奮していた。「以前お話しした失語症の件ですが、我々の方で新しい治療法が見つかりました!」
