第3章 愛は手に入れられない贅沢

下の私道で車のエンジンが止まる音がして、浅倉早苗は両手にうずめていた顔を上げた。バルコニーの窓越しに、黒川尾原の黒いセダンが円形の車寄せに停まっているのが見えた。宵闇の中、ヘッドライトがまだ光を放っている。

胸の中で、希望が必死にもがく小鳥のように羽ばたいた。黒川尾原なら助けてくれる。たとえ母親の姓を名乗っても、家族の一員なんだ。助けてくれるはずだ。

あの人は冷たい外面とは裏腹に、彼女に残された唯一の本当の家族なのだ。清水悠馬が自分を愛していないこと、この婚約がただのビジネスに過ぎないことを知れば、きっと味方になってくれる。そうに違いない。

下の玄関ホールから、如月志保の声が聞こえてきた。

「黒川様、お帰りなさいませ。浅倉様は先ほどドレスの試着からお戻りになりましたが、ひどく取り乱されております。お部屋に閉じこもってしまわれました」

黒川尾原の声は、平坦で疲れていた。

「そうか。書斎で片付けたい書類がある。邪魔をしないでくれ」

浅倉早苗は涙を拭い、震える息を吸い込んだ。これが最後のチャンスだ。黒川尾原に、清水悠馬の正体を分からせなければ。

彼女は寝室のドアまで忍び寄り、慎重に開けて廊下に誰もいないことを確かめてから、書斎へと向かった。廊下を一歩進むごとに、救済へと歩み寄っているような気がした。

黒川尾原なら分かってくれる。清水悠馬が浅倉家の名を利用したいだけだと知れば、きっと自分を守ってくれる。

私たちは家族なのだ。あんな男と結婚させるはずがない。

書斎のドアは半開きで、温かい光が廊下に漏れていた。中から低い話し声が聞こえる。黒川尾原は一人ではないようだ。ノックしようと手を上げた浅倉早苗は、耳に届いた言葉に凍りついた。

「黒川様、ご依頼の通り、すべての書類を準備いたしました」と、聞き慣れない男の声が言った。

「明日、浅倉様がご結婚されれば、浅倉家信託基金の管理権は自動的に清水様に移管されます」

「割合は?」

黒川尾原の声は冷たく、事務的だった。

「八割です。残りの二割は浅倉様の個人資産として残りますが、その管理も清水様が行うことになります」

浅倉早苗はドア枠を握る手に力を込めた。何ですって? 信託基金の管理権? いつそんなことが決まったの?

「浅倉早苗本人に、この件は?」と黒川尾原が尋ねた。

「もちろんです。ご指示通り、詳細は一切お伝えしておりません。ごく普通の政略結婚だと思っていらっしゃいます」

黒川尾原の笑いは、苦々しかった。

「あの子は昔から世間知らずだからな。その方が都合がいい」

弁護士は続けた。

「また、浅倉家の邸宅と都心のオフィスビルの資産移転に関する書類も準備ができております。ご結婚の半年後、これらの資産は正式に清水テクノロジー社へ譲渡されます」

「それでいい」と黒川尾原は簡潔に言った。

「それでうちの家の借金も完全に清算できる」

浅倉早苗の周りで世界がぐらついた。屋敷まで売るというの? 自分が育ち、父との思い出がすべて詰まったこの家を?

「黒川様、念のために申し上げますが、これらの操作は法的にグレーな領域にあります。もし浅倉様がお気づきになれば……」

黒川尾原の声は、完璧なほどに落ち着いていた。

「気づくものか。早苗はビジネスのことなど一度も気にしたことがない。愛のために結婚したと信じている限り、幸せにおままごとでもしているだろう」

彼は一呼吸おき、さらに冷たい声になった。

「それに、万が一気づいたところで……それが彼女の運命だ。もはや浅倉家に、選択の余地などない」

浅倉早苗の思考は混乱した。私の運命? 黒川尾原、あなたにとって私はそれだけの存在だったの? 犠牲になるための駒? もう耐えられなかった。怒りと絶望が胸の中で爆発し、彼女は書斎のドアを押し開けて中に飛び込んだ。

「もうやめて!」

黒川尾原と弁護士は、二人とも飛び上がった。弁護士は素早く机の上の書類をかき集め、一方の黒川尾原の表情は石のように冷たくなった。

「浅倉早苗」と黒川尾原は静かに言った。

「いつから居たんだ?」

「彼女は言った。涙が頬を伝っていた。

「全部聞いたわ」

黒川尾原は弁護士に頷いてみせた。「下がっていい」

男は書類を抱えて慌てて退出した。書斎には二人だけが残された。彼らの間に広がる沈黙は、まるで深い亀裂のようだった。

「あの書類は何?」

浅倉早苗は震える手で机を指さし、問い詰めた。

「私の知らないところで、何を企んでいたの?」

黒川尾原は彼女から顔を背け、暗くなっていく庭を窓越しに見つめた。

「浅倉早苗、お前は甘すぎる。これが現実だ。我々には清水悠馬の金が必要なんだ」

「現実?」

浅倉早苗は自分の耳を疑った。

「これがあなたの現実? 私を商品みたいに売り払うのが?」

黒川尾原は向き直り、その灰緑色の瞳は完全に感情を失っていた。

「愛など、我々には手の届かない贅沢品だ」

「尾原、私はあなたの妹よ!」

浅倉早苗は彼の腕を掴んで叫んだ。

「どうして私にこんなことができるの?」

黒川尾原の体がこわばった。彼はまるで火傷でもしたかのように彼女の手から腕を振り払い、その顔は苦痛にも似た何かで歪んだ。

「お前が俺の妹だからだ」

彼の声はわずかに震えていた。

「だから、こうしなければならない」

浅倉早苗は混乱して彼を見つめた。

「どういう意味? 尾原、何を言っているの?」

黒川尾原は再び顔を背けた。一瞬、苦悶がその表情をよぎったが、すぐに氷のような仮面に戻った。

「浅倉早苗、お前には分からない。ある種の……ある種の感情は、存在すべきではないんだ」

彼の声は一言ごとに冷たさを増していった。

「この結婚は皆のためになる。お前のため、俺のため、家全体のためだ」

「尾原、どうしたの?」

浅倉早苗は必死に彼の顔を探った。

「あなたはこんな人じゃなかった」

「お前は俺が本当はどんな人間か知らないだけだ」

彼は目を合わせずに言った。

「俺が気にかけてきたのは家の利益だけだ。お前のことはずっと……責任としてしか見ていない」

彼は言葉を止め、歯を食いしばりながら最後の言葉を絞り出した。

「それ以上でも、それ以下でもない」

その嘘が口から出た瞬間、黒川尾原の心は砕け散った。すまない、早苗。だが、俺から遠ざけることが、唯一の正しい選択なのかもしれない。

「じゃあ、これがあなたの決定なの?」

浅倉早苗の声はひび割れていた。

「愛してもいない男と、お金のために結婚する私を、ただ見ていると?」

黒川尾原は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。

「そうだ。明日、清水悠馬と結婚し、清水夫人となり、浅倉の名は永遠に忘れるんだ」

彼の声は残酷な響きを帯びた。

「それが、皆にとって最善だ」

浅倉早苗は長い間彼を見つめた後、背を向けて書斎から逃げ出した。

彼女は亡霊のように屋敷をさまよい、部屋から部屋へと移ろった。子供の頃、父と一緒に本を読んだリビング。如月志保と花を植えた庭。幼い頃、悪夢にうなされると彼が慰めてくれた黒川尾原の寝室の前を通り過ぎた。

すべてが嘘だった。清水悠馬は彼女を愛していない。黒川尾原は彼女を商品としか見ていない。自分は他の誰かのゲームの駒に過ぎなかったのだ。

携帯電話が水野奈津からの着信で絶え間なく震えていたが、浅倉早苗には応答する気力がなかった。何を言えばいい? 私の人生そのものが嘘の上に成り立っていた、とでも?

自室に戻り、机に向かってペンを手に取った。

『この手紙を誰かが読んでいるのなら、私はもういないということです。私の人生のすべてが嘘でできていたことを知りました。私は愛されてなんかいなかった。ただ利用されていただけ。誰かの手の中の道具になるくらいなら、私は自分で終わりを選びます』

鏡に映る自分の姿を見た。青白く、目は落ち窪み、うつろだった。おとぎ話を信じていた少女は、もう死んでしまった。

車の鍵を掴み、浅倉早苗は決心した。すべてが始まった場所へ戻ろう。彼女の世界が粉々に砕け散った、あのブライダルショップへ。

花野ブライダルは閉まっていて暗かったが、浅倉早苗は屋上へ続く非常階段があることを知っていた。一歩一歩が前回よりも重く感じられながら、彼女はゆっくりと登っていった。

屋上では、風が髪を吹き抜ける中、眼下の通りを見下ろした。携帯電話には水野奈津からの不在着信が十五件表示されていた。彼女はためらったが、かけ直すことなくそれをしまった。

水野奈津への罪悪感の波が押し寄せる。ごめんね、奈津。あなたまでこの汚いゲームに巻き込むわけにはいかない。この結末が、皆にとって最善なのよ。

彼女は目を閉じ、一歩前に踏み出した……

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