第2章
百合子視点
重力に引かれ、身体が落ちていく。冷たい夜気が、耳元で獣のように唸りを上げた。わずか二秒後、私はゴミの山に叩きつけられ、地面に転がった。
段ボール箱がいくらか衝撃を和らげてくれたものの、背中に走る痛みは鋭く、肋骨が何本か折れたのかもしれない。息をするたびに、胸の奥がきしんだ。
「くそっ……!」
私は顔をしかめ、震える身体を叱咤してどうにか立ち上がった。
痛みを無視して走り出す。路地裏は暗く、遠くの街灯が弱々しい光を投げかけているだけだ。裸足が冷たいアスファルトを打ち、一歩ごとに痛みが全身を駆け巡る。それでも、立ち止まることはできなかった。
路地裏を飛び出し、光通りの喧騒に紛れ込む。明滅するネオン、けたたましいクラクション――永都市の夜は、相変わらず生命力に満ち溢れていた。
破れたイブニングドレスに、鳥の巣のように乱れた髪。そんな姿の私を、道行く人々が奇異の目で見る。スマートフォンを向ける者、ひそひそと囁き合う者。
けれど、もうどうでもよかった。見たいだけ見ればいい。噂したいだけすればいい。今の私には、失うものなど何もなかったから。
私はただ、必死に走った。高峰恭平の報復に怯えながらも、同時に、ようやく手に入れた自由に心が沸き立っていた。十年間の鎖、十年間の偽りの自分――あの平手打ち一つで、すべてが砕け散ったのだ。
今、私は本当にやりたいことができる。そして、私が一番に望むこと。それは、この十年、心の底から負い目を感じていた人に会うことだった。
颯馬……。颯馬に会わなくちゃ。
十年という、あまりに長い時間。彼は今、どこにいるのだろう。まだ私を、待っていてくれるだろうか。
◇
警備員たちからどうにか逃げ切り、永都市の通りを二時間さまよった。盗んだ作業着を羽織り、拾ったスニーカーを履いた私は、深夜の街をまるで浮浪者のように彷徨っていた。
これから、どこへ行けばいいのだろう。金も、友人も、泊めてくれる場所すらない。イリスが私の身体で築き上げた人間関係は、すべてが上辺だけの偽物だった。
当てもなく歩いていると、不意に点滅するネオンを掲げた一軒のバーの前で足が止まった。『青い夜』。
その名前に、なぜか酷く胸がざわついた。
突如、イリスの記憶の断片が洪水のように脳内へ流れ込んでくる。十年前、まさにこの場所で、彼女は私の身体を使い、颯馬を無慈悲に傷つけたのだ。
彼女は私の声で、こう言い放った。「もう終わりよ」と。
颯馬の、絶望に満ちた瞳が脳裏に蘇る。「どうしてだよ、ゆこ……。俺たち、ずっと一緒に……」
「ゆこなんて呼ばないで! 私たち、住む世界が違うのよ。あなたはただの貧乏な学生じゃない。でも、私はもっと贅沢な暮らしがしたいの」
イリスは私の口を使い、そんな残酷な言葉を吐き捨てた。
血の気を失い、青ざめた顔で颯馬はバーを飛び出していった。それが、私が彼を見た最後だった。
私は深く息を吸い込み、重いドアを押し開けた。
店内に満ちた紫煙と、ウイスキーの匂いが鼻をつく。バーカウンターに腰を下ろすと、隅のテーブルから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……あいつ、もう十年も毎晩ここに来てるんだ。泥みたいに酔っぱらって、馬鹿の一つ覚えみたいにあの女の名前を叫んでよ」
そちらに目を向けると、そこには小野寺健之助がいた。私たち三人と共に育った、大切な幼馴染だ。十年前よりずっとやつれ、その顔には深い怒りが刻まれている。
「あの高峰百合子って女は、とんでもねえ悪女だ。颯馬はあいつのせいで死にかけたってのに、金のためにあの金持ち野郎と駆け落ちしやがって……」
「健之助……?」
震える声で、私は彼の名を呼んだ。
健之助が、ゆっくりとこちらを振り向く。そして私を見るや否や、持っていたグラスをカウンターに叩きつけた。ウイスキーが派手な音を立てて飛び散り、彼の目は瞬時に氷のような冷たさを帯びた。
「とんだお出ましじゃねえか……高峰百合子。世界的なヴァイオリニストで、高峰恭平様の婚約者様が、こんな掃き溜めで何をしてる? 成功を見せびらかしに来たのか?」
心臓が激しく脈打ち、手のひらがじっとりと汗ばむ。
「健之助、私は……」
「黙れ!」
健之助は立ち上がり、私の鼻先を指差した。
「お前のせいで、颯馬がこの十年、どんな思いで生きてきたか知ってんのか?」
やめて……。言わないで……。私は心の中で必死に祈った。
「毎晩ここで酔いつぶれてんだよ! 十年だ! 丸十年だぞ! 全部、お前の言った『私たち、無理なのよ』って言葉のせいだ!」健之助の声が荒くなる。「あいつは事業帝国を築き、無一文から不動産王にまでなった――なんであいつがそこまで必死になれたか、分かるか?」
膝から力が抜け、胸を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「どうして……」
「お前にふさわしい男だってことを証明したかったからだよ、このクソ女が! 金持ちになって、地位を手に入れれば、お前が戻ってくるかもしれないって、あいつはそう信じてたんだ! だがお前は? あの金持ちのベッドで贅沢三昧だったんだろ!」
一言一句が、鋭いナイフのように私の心臓を突き刺した。颯馬……。私の颯馬が……私のために、そんなにも苦しんでいたなんて……。
「お前が金目当ての売女だってことは分かってんだよ! 心からお前を愛してた男を、金のために捨てた薄情者だってこともな!」
健之助は怒鳴り続けた。私は完全に打ちのめされ、顔を覆って泣きじゃくった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……私に資格がないのは分かってる……今すぐ出ていくから……」
身を翻して逃げ出そうとした、その時だった。温かく、けれど震える手が、不意に私の手首を掴んだ。まるで私が消えてしまうのを恐れるかのように、その手は力強く握りしめられていた。
振り返ると、そこにはこの十年、焦がれてやまなかった顔があった。
相田颯馬。
彼は上質なダークスーツに身を包んでいたが、その瞳は衝撃と信じられないという思いに見開かれていた。十年という月日は、彼をより成熟させ、精悍にしたが、同時にどこかやつれた影も落としていた。彼の手は震え、私の手首を固く握っている。
「百合子……?」彼の声は掠れていた。「本当に、お前なのか?」
「颯馬!」健之助が興奮して立ち上がった。「お前、何やってんだ! そいつはお前を捨てた女だぞ! もう夢なんか見るな!」
「健之助、黙れ」
颯馬の声は静かだったが、握る力は強まった。もう片方の手が私の肩に添えられ、私が逃げ出すのを制するように、優しく、けれど強く引き留めている。
「なんで黙んなきゃなんねえんだよ! こいつはお前を十年も苦しめたんだぞ!」
「黙れと言っただろ! 出ていけ! 今すぐだ!」
颯馬が、初めて声を荒げた。それでも、その手は決して私を離さなかった。
健之助は衝撃を受けたように颯馬を見つめ、やがて諦めたように首を振って店を出ていった。去り際に、彼は吐き捨てるように言った。
「もしあいつをもう一度傷つけたら、俺がお前を殺してやる」
バーには、颯馬と私だけが残された。彼の手はまだ私を固く握りしめ、その視線は私の魂の奥底まで見透かすかのように、ただひたすらに私を捉えていた。
「颯馬、私、行かなくちゃ。健之助の言う通りよ……」
彼の目を見ることができず、私は俯いた。
「俺を見ろ」
もう片方の手が、優しく私の顎に触れ、無理やり顔を上げさせた。
その深い眼差しと視線が合った時、私は彼の瞳の中に、衝撃と痛み、そして、微かな希望の光を見た。
「本当に、百合子なのか?」
彼は私の頬を親指でそっと撫でながら、確かめるように尋ねた。
彼の指の温もりに、懐かしい熱に、呼吸が苦しくなる。
「私は、菊池百合子。あの貧しい山育ちの女の子。あなたの、ゆこよ」
颯馬の目に、一瞬、歓喜の光が閃いたが、すぐに警戒の色に変わった。
「もしお前が、本当に俺のゆこなら……」
彼は深く息を吸い込み、両手で私の顔を包み込んだ。
「俺たちの十六の誕生日――古い樫の木の下に埋めたタイムカプセルに、何を入れたか覚えてるか?」
心臓が大きく跳ねた。
「あなたが手で彫った木製のヴァイオリンの模型と、樫の木の下で撮った私たちの写真。それから、未来の自分たちに宛てた手紙」
颯馬の顔が青ざめ、身体が微かに震え始めた。
「手紙に……俺は、なんて書いた?」
「『ゆこ、何があっても、俺はお前を永遠に愛してる。一生、お前の騎士でいる』って」
次の瞬間、颯馬は私をきつく、壊れそうなほど強く抱きしめた。彼の身体は激しく震え、荒い息が私の耳元にかかる。
「ゆこ……俺の、ゆこ……」彼は私の耳元で、信じられないほどの喜びに満ちた声で囁いた。「本当に、帰ってきてくれたんだな……」
私は彼の腕の中で、声を上げて泣いた。その抱擁の温かさと力を感じながら。
「ごめんなさい……こんなに長く待たせてしまって、ごめんなさい……」
「いや、謝るな」彼は私をさらに強く抱きしめ、何度も私の髪を撫でた。「あれはお前のせいじゃない。俺は、ずっと分かってたから」
「どうして……?」
私は彼の胸を押し返すようにして、困惑したまま見つめた。
「お前を知ってるからだ。本当のお前は、あんなこと絶対に言わない」彼の手は名残惜しそうに私の腕を滑り、指を絡ませた。「お前の魂は、誰よりも純粋で、美しい」
彼は私の手を引き、その瞳で真っ直ぐに私を見つめた。
「家に帰ろう。本当の、俺たちの家に」








