第1章 死に戻り
月岡古雅は全身の骨を砕かれ、ぼろ布の人形みたいに土の中へ埋められていた。
薄い空気が胸の奥からじわじわと抜けていく。鼻先を満たすのは血と土の生臭い匂い。指先だけがかすかに震え、湿った泥を掻きむしるように食い込んでいる。
「……はい。もういいわ」
頭上から落ちてきた声は、か弱いのに――毒で焼いたみたいに冷たかった。
従妹の原田紀奈だ。
「お姉さん、私を冷たいなんて責めないでね」
原田紀奈は月岡古雅の頭のそばにしゃがみ込み、残酷な笑みを声に滲ませる。
「責めるなら、自分の世間知らずを責めて。月岡グループほどの財産が、どうして全部あんた一人のものなの? うちの父さんは何年も月岡家のために身を粉にして働いたんだよ。少しぐらい見返りをもらって当然でしょ?」
月岡古雅は真っ赤に充血した目で睨みつけた。虚偽で塗り固めたその顔を引き裂きたかった。
だが土はもう喉元まで来ている。喉から漏れるのは「ひゅっ……ひゅっ……」という空気の抜ける音だけ。
「あ、そうだ」
原田紀奈はふと思い出したように立ち上がった。
「いくつか、ちゃんと教えてあげる」
声を落とす。
「おじさんが急に心筋梗塞を起こした理由、知ってる? 私が薬をビタミン剤にすり替えたの」
「それからおばさん。あんなにプライドの高い人だったのに、倒産の知らせと、おじさんと秘書の合成写真を何枚か見せただけで……三十階から飛び降りた」
月岡古雅の瞳孔がぎゅっと縮む。目の奥から血が滴り落ちるみたいだった。
「お兄さんはね、手足だけは立派で頭が空っぽの人でしょ? レーシングカーにちょっと細工しただけ。ブレーキが利かなくなって、爆発――あっけなかったわ」
月岡古雅の身体が激しく痙攣した。怒りと憎しみが、この壊れた肉体を突き破りそうになる。
両親の慈しむ顔。兄の朗らかな笑い。全部が頭の中で悲鳴を上げる。
全部――こいつのせいだ。
狼を家に招き入れたのは自分。毒蛇を「優しい妹」だと信じた自分。家族を殺したのは、自分の愚かさだった。
「それとね。あんたが骨の髄まで愛してた婚約者、七瀬崚介」
原田紀奈の声が、得意げに弾む。
「どうして急に結婚を承諾したと思う? 本気で、あんたの腎臓一個で愛が買えるって思った? 馬鹿じゃない? あの人が欲しかったのは月岡家の婿って肩書きよ。堂々と月岡グループの最後の資源を飲み込むため」
そこで、わざとらしく間を置く。
「腎臓? 売ったわ。売ったお金で、私にプロポーズのダイヤを買ったの。私たち、ずっと前から付き合ってた。あんたが馬鹿みたいに走り回って尽くしてる間、あの人は私のベッドで『あいつは頭悪くてうざい』って言ってた」
「ぁ……ああああああっ!!」
月岡古雅の喉から、人の形を失った叫びが裂けた。
七瀬崚介を十年愛した。彼の一言だけで手術台に横たわり、迷いなく腎臓を差し出した。
それが愛だと信じていた。だがそれは――最初から、嘲笑のための道具だった。
「叫ばないで。力の無駄よ」
原田紀奈は手についた土を払って立ち上がる。
「月岡グループはもう七瀬のもの。崚介も私のもの。お姉さんはここで、安心して腐って」
遠ざかる足音。最後の光が消える。
無限の闇が、月岡古雅を飲み込んだ。
――許せない。来世があるなら、必ず血で償わせてやる。
——
耳元で、しとしとと雨の音がした。
月岡古雅は跳ね起き、死にかけの魚みたいに口を開けて息を貪った。
天井から下がる水晶のシャンデリア。ベッド脇の絨毯には、シャンパン色のドレスが散らばっている。
ここは――十九歳の誕生日の夜、ヒルトンホテルのスイート。
胸の中で心臓が狂ったように暴れ、月岡古雅は勢いよく起き上がって洗面所へ駆け込んだ。
鏡の中の少女は艶やかな顔立ちで、瞳は澄んでいる。首元には、母が誂えてくれたサファイアのネックレス――十九歳の誕生日プレゼント。
震える手が、左の腰腹へ伸びる。
滑らかな肌。後に腎臓を提供したときの、あの醜い傷はない。
戻ってきた。
全部を取り返せる、始まりへ。
「……はは、ははは……!」
堪えた笑いが、狂喜の嗚咽に変わる。涙が溢れ、頬を濡らした。
ひとしきり吐き出すと、月岡古雅は乱暴に涙を拭った。悲しみは引いて、残ったのは骨に刻まれた憎しみだけ。
原田紀奈、七瀬崚介――首を洗って待ってろ。命を取りに来た悪鬼が、戻ってきた。
そう思った瞬間、携帯の着信音が鳴った。七瀬崚介だ。
遠い記憶が、鮮やかに蘇る。
昨夜は学院恒例の秋の舞踏会。十九歳の誕生日でもあった。
月岡古雅は勇気を振り絞り、皆の前で、月のように崇められる七瀬崚介に近づいて開幕ダンスへ誘った。
だが七瀬崚介は一瞥もくれない。彼のそばにいたラグビー部の男たちが、遠慮の欠片もない哄笑を爆発させた。
「七瀬様にはキャサリン先輩がいるだろ! キャサリン先輩こそセントモン学院のプリンセスだしな!」
月岡古雅はその場に立ち尽くし、滑稽な道化になった。誰もが彼女を嘲笑った。
「あなたが月岡古雅?」
“キャサリン”と呼ばれる女がシャンパンを揺らしながら近づき、見下すような視線で値踏みしてきた。
月岡古雅が答える前に、冷たい液体が頭上から一気に降り注いだ。
黄金色の酒が髪を瞬く間に濡らし、頬を伝い、首筋へと遠慮なく流れ込む。濡れたドレスが肌に張り付き、惨めな輪郭を浮き彫りにした。
「ごめんなさーい。手が滑っちゃった。大丈夫?」
キャサリンが言う。
「きゃははは!」
周囲の女子が一斉に笑い転げ、指をさして身体を折る。
七瀬崚介も騒ぎに気づいたはずなのに、どうでもいい余興でも見るみたいに冷淡に視線を逸らした。
男たちは軽薄な口笛を吹き、嘲りは会場の喧騒に溶けていく。
あの瞬間、氷の冷たさと焼ける熱さが体内でぶつかり、圧倒的な羞恥が月岡古雅を溺れさせた。
回想が途切れても、着信音は鳴り続けている。
月岡古雅は冷笑し、通話ボタンを押した。
『昨日の件、説明してもらう。在学生が大勢いる前でキャサリンを突き飛ばすなんて、月岡家のお嬢様のすることじゃない。教養がなさすぎる』
昨夜、侮辱されて帰ろうとしたところをキャサリンに塞がれ、仕方なく押し退けただけだ。
――教養?
月岡古雅は笑いそうになった。
嘘で腎臓を奪った男が、教養を語る?
前世の自分は、こう言った。
『崚介、ごめんなさい、すぐ行く。怒らないで……私、あなたが好きすぎて……』
埃にまみれたような卑屈さ。思い出すだけで吐き気がする。
「月岡家のお嬢様らしい教養って、なに?」
『……今なんて?』
「日本語、分からない?」
『月岡古雅、頭おかしくなったのか! よくもそんな口の利き方ができるな!』
月岡古雅はスマホを少し遠ざけ、淡々と言った。
「押すわよ。押すだけじゃない。プールに突き落として、二、三回踏みつけたいくらい」
