第10章 原田紀奈の正体

リビング。

月岡星也が帰宅したばかりだった。月岡博雄と原田奈織が、何年ぶりかに息子の顔を見て喜びに包まれた――その矢先、原田佐介夫婦が訪ねてきた。

前回は確かに揉めた。けれど親戚には違いない。相手も何事もなかったかのように上がり込み、満面の笑みで挨拶してくる。

笑っている相手を、いきなり追い返すわけにもいかない。

ところが、ろくに言葉を交わす間もなく、外から狂ったような叫び声が響いた。

顔を上げた瞬間、原田紀奈がびしょ濡れのまま飛び込んでくる。ぐしゃぐしゃの髪、肩で息をしながら、山口美也子の胸に縋りついた。

「紀奈! どうしたの!?」

山口美也子は足がすくみそうになりながらも駆け寄り、娘を抱きとめる。声が震えた。

「誰がこんなことを……!」

泣きじゃくる紀奈が口を開きかけた、そのとき。

月岡古雅がリビングに入ってきた。

紀奈は幽霊でも見たみたいな顔で古雅を睨み、山口美也子の袖をきつく掴む。声がまだがたがたと揺れている。

「この人よ! 月岡古雅が私を水に突き落としたの! それで、上がれないように押さえつけて……溺れ死ねって!」

その瞬間、原田佐介が怒りで顔を真っ赤にし、テーブルを叩いて立ち上がった。指先が月岡博雄を指し示す。

「見ろ! お前の娘が何をした! 今日はちゃんとケジメをつけてもらうぞ!」

月岡博雄と原田奈織は目を見合わせ、どこか現実味のない表情になる。

月岡星也は、頭の中が真っ白だった。

数年ぶりに会えた妹が――従妹を殺そうとした?

そんなはずが、あるわけがない。

星也は慌てて原田佐介に向き直る。

「叔父さん。古雅ちゃんが、そんなことするはずない」

言い切ってから、今度は古雅に視線を移した。焦りが滲む。

「古雅ちゃん、どういうことなんだ……?」

久しぶりに見る兄の顔に、古雅の胸の奥がきしむ。言いたいことは山ほどあった。けれど今は――淡々と頷くしかない。

「……うん。私が、突き落とした」

一言で、空気が凍った。

最初に声を上げたのは山口美也子だった。指を突きつけ、勝ち誇った笑みで月岡博雄を見る。

「ほら! 自分で認めたじゃない! まだ言い逃れするつもり? 今日は紀奈に謝らせなさい! 前は殴って、今度は殺人よ! 次は私たちまで殺す気!?」

月岡博雄は娘を見て目を見開いたが、言葉が出ない。

その様子に、原田紀奈は完全に勝った気になったのだろう。泣き声をさらに大きくし、星也の腕にしがみつく。

「お兄ちゃん、見てよ……ひどいよ。私、何もしてないのに。お姉ちゃんみたいにお金もないし、お兄ちゃんみたいな優しい人もいないけど……だからって、私が虐められていい理由にはならないでしょ……!」

星也の胸がちくりと痛んだ。従妹だ。かわいそうだとも思う。

古雅が人を殺すはずはない。だが、さっき本人が認めた以上、まずは紀奈を落ち着かせるべきだ――そう判断した。

星也は懐から小切手を取り出し、金額を書き込んでから紀奈に差し出す。慰めの言葉を添えようとした、その瞬間。

紀奈は得意げに口元を歪め、待ちきれない様子で手を伸ばす。

だが古雅が一歩前に出て、小切手をひったくった。

そしてポケットからスマホを取り出し、星也へ渡す。

「お兄ちゃん、焦らないで。これ、聞いて」

古雅は録音を再生した。

『ちゃんと話つけてくれないなら、今ここで飛び込む! そのときは、お兄ちゃんに言うからね――あんたが突き落としたって!』

『私、かわいそうでしょ? お兄ちゃんは騎士様みたいな人だもん。絶対、私に補償するに決まってる!』

原田紀奈の声だった。あまりにも、はっきりと。

再生が終わり、リビングは水を打ったように静まり返った。

星也の顔から血の気が引く。信じられないものを見る目で紀奈を見つめ、瞳の奥で何かが砕けたようだった。

親しい妹ほどではないにせよ、星也は紀奈にもずっと甘かった。頼まれれば、できる限り応えてきた。

――自分は、都合のいい財布でしかなかったのか。

星也は息を吸い込み、怒りを飲み込んだ。けれど視線は冷たく沈む。

彼は紀奈の手を振りほどいた。

「原田紀奈。ここまで揃って、まだ何か言うつもりか? 今すぐ出て行け。月岡家は、もうお前を歓迎しない」

紀奈は固まった。

古雅が録音していた?

どうして――!

最近、古雅と少し距離ができたとはいえ、ここまで警戒されるなんて思わなかった。起こることを、先に分かっていたとでもいうの?

理解できない。分からないことだらけだ。

考えれば考えるほど腹が立ち、紀奈は歯を食いしばって古雅を指さした。

「月岡古雅! あんた、性格悪すぎ! 腹黒いにもほどがある!」

古雅は鼻で笑う。

「腹黒い? ただ、あんたが間抜けなだけ。……まだ居座るつもり? 噴水の水、もう一杯飲む?」

月岡博雄と原田奈織も、完全に表情を硬くした。

「原田佐介、山口美也子。娘を連れて帰りなさい。今後、原田紀奈をここへ寄こさないで。古雅ちゃんに、そんな妹はいない」

原田佐介夫婦は顔を歪め、何か言い返そうとして口を開きかけた。だが、月岡博雄の青ざめた怒りの顔を見て、結局一言も出ない。

「……もういい。帰るぞ」

原田佐介は低い声で言い捨て、背を向けた。

山口美也子も眉をひそめ、不満げな光を目の底に残したまま紀奈の腕を引く。

紀奈はなおも抵抗しようとしたが、原田佐介の鋭い眼差しに射抜かれ、黙ってついていくしかなかった。

——屋敷の外。

紀奈は山口美也子の手を振り払い、悔しさに声を張り上げた。

「パパ! ママ! 私がこんなに恥かいたのに、なんで帰らなきゃいけないの! もう少し粘れば、小切手が手に入ったのに!」

原田佐介は苛立ったように吐き捨てる。

「お前は分かってない。今日の件、俺たちに相談もしないでやったくせに、詰めが甘すぎるんだよ。録音を取られるなんて論外だ。これ以上騒げば、金どころか月岡家を本気で怒らせる。そうなったら、二度と手が出せなくなる」

山口美也子も小さく息をつく。

「紀奈。お父さんの言う通りよ。今は我慢しなさい。チャンスなら、いくらでもあるわ。月岡家なんて、そのうち必ず踏み潰してやるんだから」

紀奈は唇を噛み、怒りを抱えたまま歩き去った。

——月岡家のリビング。

鬱陶しい連中が消えた途端、家の中はすっと静けさを取り戻し、温かい空気が戻ってきた。

古雅は星也の顔を見つめる。記憶の中と変わらない、優しい笑み。

一歩近づき、兄の腕に抱きつく。瞬間、目の奥が熱くなった。

「お兄ちゃん……やっと、帰ってきた」

星也は古雅の頭をくしゃりと撫で、思わず笑う。

「泣くなよ。数年ぶりだろ? なのに、お前の言い方だと、まるで一生ぶりみたいだ。……俺だって向こうで、毎日いちばんお前のこと考えてたんだからな。そうだ、プレゼントも持ってきた。あとで開けろよ」

古雅は声が詰まって、うまく返せない。

「プレゼントなんていらない……お兄ちゃん、ずっと私のそばにいて」

星也の胸が、ぎゅっと掴まれた気がした。

抱きしめている妹の顔立ちは、確かに昔のままだ。なのに、どこかが違う。

「大人っぽくなった」なんて簡単な言葉じゃ足りない。常人には想像もできない何かを、くぐり抜けてきた――そんな気配。

星也は、声を落とす。

「古雅ちゃん。……誰かにいじめられてるのか? 教えろ。誰だ。俺が叩きのめす。お前、急に変わりすぎだろ」

古雅は涙を拭って笑った。

変わっていないのは、兄のほうだ。いつだって背中で支えてくれる人。

首を横に振る。

「大丈夫。何もないよ。数年会わなかったら、少しは変わる」

そう言いつつ、古雅の眼差しは真剣になる。

「でもね。私だけじゃない。周りも変わってる。さっきの原田紀奈みたいに……お兄ちゃんも気をつけて。騙されないで」

星也は妹の真面目な顔に、くすっと笑い、頷いた。

「分かった、気をつける。……そうだ、帰ってきてすぐ、お前のレースの配信を見たぞ。いつからレーシングなんて始めたんだ? 俺、知らなかった」

古雅の胸が、きゅっと痛んだ。

前の人生では、星也の三十歳の誕生日を驚かせたくて、こっそり習ったものだった。

けれど、そのとき兄はもう――。

古雅は感情を押し込み、笑ってみせる。

「長いこと会ってないんだもん。新しいことの一つや二つ、やってても普通でしょ」

星也は口元を上げる。

「いいじゃん。俺の妹、知らない間に努力してたんだな。ちょうどいい。俺も海外で色々覚えた。機会があったら、お前に披露してやる」

古雅は頷き、兄の腕を強く抱きしめた。

「うん。これから、いくらでも機会はある」

今度こそ、月岡古雅は守り抜く。自分が大切に思う、すべてを。

原田家のあの連中――毒みたいな連中は、いずれ必ず根こそぎ消す。

けれど今日だって、両親は彼らを家に上げた。

録音を聞かせて紀奈の本性を見せつけたとはいえ、両親が今後も情にほだされ、また受け入れてしまう可能性はゼロじゃない。

もっと決定的な証拠が必要だ。

自室に戻り、古雅は星也の贈り物を開けた。

淡いブルーの宝石と南アフリカ産のダイヤが連なる、精巧なブレスレット。その中心には、ひときわ強く輝く一粒が嵌め込まれている。

五十年前、ある匿名の富豪に買い取られ、その後表舞台に出てこなかった逸品――「女神の涙」。

金があるだけじゃ手に入らない。兄がどれほど心を砕いたのか、痛いほど伝わってくる。

前の人生でも、このブレスレットは不思議なくらい運を連れてきた。

……けれど、あの惨劇が始まる前に盗まれた。

そして後日、原田紀奈の手首に巻かれていた。

その記憶がよみがえった瞬間、古雅の中の憎しみが胸を突き破りそうになる。

古雅はスマホを取り出し、一つの番号へ電話をかけた。

「近藤。悪いんだけど……この一か月、原田佐介の一家を注意して見ててくれない?」

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