第11章 婚約破棄
翌朝、月岡古雅はやけに早起きだった。
今日は休日。
――婚約を破棄するのに、これ以上ない日だ。
自分が七瀬崚介と婚約していると思うだけで、胃の奥がむかむかする。
ドアの向こうから、両親と兄の声が聞こえてきた。
心配そうな原田奈織の声。
「博雄……古雅ちゃん、最近ちょっと変わりすぎじゃない? 昨日も『周りの人が変わった』とか言ってたし……もしかして、どこか具合が悪いんじゃ……」
月岡博雄が少し強めに言う。
「病気なわけないだろ。うちの娘は元気だ。古雅ちゃんが大人になって、自分の考えを持つようになっただけだよ。俺たちにできるのは支えることだけ。結婚が近づいて緊張してるのかもしれないし、時間があるならお前が連れて買い物でも行ってこい。気分転換にな」
短い沈黙のあと、月岡星也の声が、苛立ちを帯びて響いた。
「俺は古雅ちゃんを嫁にやるのが本気で惜しい。そもそも、あの縁談自体に賛成したくない。七瀬崚介ってやつ、どこがいいのかさっぱり分からない。古雅ちゃんが好きだって言うから我慢してただけで、俺なら視界にも入れない」
リビングにため息が重なる。
そこへ、月岡古雅が姿を見せた。
「お兄ちゃん、心配しなくていいよ。今日、七瀬崚介と婚約を解消してくる」
リビングの三人が、そろって固まった。
最初に反応したのは原田奈織だった。
「古雅ちゃん……この前言ってたこと、やっぱり本気だったの?」
月岡古雅は頷き、言い切る。
「うん。前は私が見る目なかっただけ。今はもう、何も感じない。婚約を終わらせたほうが、双方ラクでしょ」
月岡博雄は険しい顔で黙り込み――やがて、ほっとしたように笑った。
「古雅ちゃん。正直言うと、俺たちもあの縁談には満足してなかった。前はお前が勢いで言ってるのかと思ったけど、今回は違うんだな。よし、今から行こう。きっちり終わらせる」
月岡家はすぐに七瀬家へ向かった。
「旦那様、奥様。月岡さんご一家がお見えです」
執事の報告に、七瀬一輝と高橋美桜は顔を見合わせた。そこには疑問しかない。
「このタイミングで何の用だ。式はまだ一年先だぞ。連絡もなしに」
「決まってるでしょ。昨日あの娘がやらかした件よ。レースで変な賭けして……裸で走るとか何とか。崚介の面子が丸つぶれじゃない!」
「じゃあ、謝りに来たのか?」
「他に何があるのよ!」
「なら簡単には許せんな。あっちの娘が必死に食いついてくるから仕方なく娶ってやるつもりだっただけだ」
二人はわざと時間を引き延ばし、しばらくしてからようやく通した。
七瀬一輝はソファに座り、スマホでニュースを眺めたまま、目も上げずに言う。
「来たか。そこに座れ」
高橋美桜は隣で優雅にお茶を飲み、雑誌をめくる。
「月岡古雅。やっと考え直したの? 崚介に謝りに来たんでしょ」
この手の態度には、月岡古雅も見覚えがありすぎた。
以前の自分が気にしなかったのは、七瀬崚介が好きだったからでもない。若くて単純で、自分には自分の力がある、結婚しようが未来は自分で支えられる――だから、こんな連中に時間も感情も使う価値がないと思っていただけ。
でも、今は違う。
もう我慢しない。
月岡古雅は冷ややかに笑うと、高橋美桜の前に歩み寄り、雑誌をひったくってゴミ箱へ放り投げた。さらにティーカップを奪い、横の鉢植えに中身をざばりと捨てる。
「七瀬奥さん。謝りに来たんじゃない。婚約破棄に来たの。あなたの、何一つ成し遂げたこともないのに恥ばかり晒す息子と別れられるなら――条件が謝罪でも、してあげる」
七瀬一輝夫妻は、茶をぶちまけられた呆然から立ち直る間もなく、その言葉に目を剥いた。
先に怒りを爆発させたのは七瀬一輝だ。
「月岡古雅! どういうつもりだ! 最初に婚約したいと言い出したのはお前のほうだろう! 今さら撤回? お前の親は娘にそう教えてるのか!」
月岡古雅の口元に嘲りが浮かぶ。
「私が崚介を好きって言ったことはある。でも、お父さんに何度も頭下げて『婚約させてほしい』って言ってきたの、あなたたちでしょ。うちから最初の仕事をもらったとき、顔が引きつるくらい笑ってたのもあなたたち。婚約して一年も経たないうちに、あの必死な媚び方を忘れたの?」
言い切って、さらに露骨に嫌悪を見せる。
「私の親の教育を心配してくれなくていい。少なくとも、裸で走れなんて教えないから」
数年前まで、月岡家と七瀬家はまだ拮抗していた。
だが、企業が淘汰される波に揉まれ、七瀬家は流されていく側になった。今の地位をどうにか保ってこられたのは、月岡家が手を差し伸べてきたからだ。
それでも、自分たちの立場が分かっていない。
この態度に、月岡博雄夫妻もとうに我慢の限界だった。娘が容赦しないなら、親だって遠慮する理由はない。
「もう十分だろう。こちらの意思は伝えた。この縁談は白紙。今後、両家は一切関わらない」
月岡博雄が立ち上がり、そのまま出ていこうとする。
あまりにも迷いのない動きに、七瀬一輝夫妻はそこでようやく気づいた。
月岡古雅は冗談じゃない。癇癪でもない。月岡家は本気だ。
――そんなはずがない。
月岡古雅が息子に向けていた執着は、彼らも散々見てきた。どれだけ失礼なことをしても、彼女は一度も本気で怒らなかった。だからこそ、月岡家にこんな態度が取れていたのに。
何がどう狂った?
だが、ここまで言われて引くほど、七瀬一輝は器用ではない。長年の驕りが邪魔をして、頭を下げるなんてできず、しかめ面で聞こえないふりをする。
一方で高橋美桜は、月岡家という後ろ盾を失う恐怖で、平静を保てなかった。
「だめ! 認めない! 勝手に婚約を破棄するなら、世間に言いふらしてやるわ! 月岡家は約束を破るって!」
追い詰められた叫び。中身なんてない。
それでも月岡古雅は足を止め、ちらりと高橋美桜を見た。口元が薄く上がる。
「両家の取引は全部止める。私のことより、自分たちがこの先、商売の世界でどうやって息をするか心配したら?」
それ以上は無駄だと判断し、月岡古雅は振り返ってドアに手をかけた。
だが、開けた瞬間――外に七瀬崚介が立っていた。
月岡古雅を見て、崚介は一瞬だけ目を見張る。すぐに何かを思いついたように、わざと冷たい顔を作り、得意げに言い放った。
「月岡古雅、帰れ。俺はお前を許さない。お前みたいな女、性格が悪くて卑怯だ。俺たちは合わない。もう二度と会うな」
月岡古雅は、七瀬家の人間がどんな病気なのか本気で分からなくなった。
なぜ全員が全員、自分が謝りに来た前提で喋るのか。
頭が痛くなるほどのうんざりを顔に出し、遮る。
「約束だよ。私がこれから美味しく食べて気持ちよく暮らすためにも、二度と目の前に出てこないで」
言い終えるより先に、月岡星也が崚介へ鋭い視線を突き刺した。声は氷のように冷たい。
「七瀬崚介。婚約は破棄した。もう他人だ。妹に近づくな。俺は昔から、堪え性がない」
七瀬崚介の作り物の高慢さが、その場で粉々に砕け散った。
