第2章 男を助けた

月岡古雅が着替えを済ませ、ホテルの客室を出た――その瞬間だった。

正面から、熱を帯びた大きな影がぶつかってくる。

男の身体は焼けるように熱く、濃い血の匂いに、どこか甘ったるい異臭が混じって――一瞬で彼女を包み込んだ。

月岡古雅は眉をひそめ、身を引こうとする。だが次の瞬間、手首をがっちり掴まれた。骨が砕けそうな力。

よろめいたまま部屋へ引きずり戻され、ベッドへ乱暴に放り投げられる。

男の巨体が覆いかぶさる。灼ける息が肌を叩き、重みが容赦なくのしかかった。

月岡古雅の顔が険しくなる。

反応は遅くない。前の人生、七瀬崚介に好かれたくて、あれこれ身につけた。その中に格闘もある。

肘を上げ、男の肋の――急所へ叩き込む。

「……ぐっ!」

男が喉奥で呻き、拘束がわずかに緩んだ。

月岡古雅は即座に手首を取り返し、逆手に絡めて捻り、突き放す。

体格差なんて関係ない。鈍い音とともに、男は厚い絨毯の上へ叩きつけられた。

床に転がった男は荒く息をし、汗で濡れた前髪の隙間から、墨のように黒い目が覗く。

刃物みたいに鋭い視線。みすぼらしい姿でも、全身から漂う圧迫感と危険な気配が、背筋を冷やした。

月岡古雅はそこで、ようやく顔を見た。

攻撃的なまでに整った美貌。彫刻みたいに深い彫りの五官。だが頬には不自然な潮紅が浮かび、明らかに様子がおかしい。

瞳孔がきゅっと縮む。

――柊木禅司。

A市の「闇の王」と呼ばれ、容赦のない手腕で知られる柊木家の男。なぜここに? しかもこの状態で?

電光石火、前の人生で偶然耳にした“揉み消された噂”が脳裏をよぎる。

柊木禅司が誰かに嵌められ、相当強い薬を盛られ、大騒ぎになった――だが、どう収拾したのかは闇に消えた。

噂は本当だったらしい。

柊木禅司は少し正気を取り戻したのか、起き上がろうともがきながら、冷たく言い捨てる。

「死にたくなければ……消えろ」

月岡古雅は動かない。細めた目の奥で、計算の光がすっと走った。

柊木禅司だ。助けて恩を売れれば、思いがけない切り札になる。

彼のそばへ近づき、殺すような眼差しを無視して素早く状態を確かめる。

外傷はない。脈は速い。体温も高い。下衆な薬――しかも相当きつい。

迷わず、彼の腕を掴み、浴室へ引きずった。

柊木禅司は抵抗しようとしたが、薬に侵されて力が入らない。

「……殺すぞ」

歯の隙間から絞り出す声。瞳の奥が赤い。

月岡古雅は聞く耳を持たず、シャワーヘッドの下へ押し込み、冷水をひねった。

氷みたいな水柱が頭から叩きつけられ、柊木禅司の身体がびくりと震える。濁った意識に、短い明瞭さが戻った。

「出て行け……!」

掠れた声。体内の邪火と殺気が絡み合い、膨れ上がる。

月岡古雅は眉を上げた。

――随分と気が荒い。

いったん浴室を出て、部屋の救急箱を漁る。持ち帰ったのは使い捨ての注射器と鎮静剤。

手慣れた動きで薬液を吸い上げる彼女を見て、柊木禅司の眼が鋭くなる。

「何をする気だ」

月岡古雅は淡々と告げた。

「柊木さん。大人しくして。医療は少し齧ってるの。上手いとは言わないけど、刺す場所を間違えたら……下半身の機能が一生ちょっと不自由、くらいならできる」

意味ありげに視線が、彼の下腹へ落ちる。

柊木禅司は息を呑み、目を見開いた。

脅しなら腐るほど受けてきた。だが、こんな脅し方をする女は初めてだ。

その一瞬の隙。

月岡古雅は躊躇なく針を入れ、下腹へ素早く押し込んだ。神経の多い場所――衝動を抑えるため。

「……っ」

柊木禅司が呻く。強い痺れと鈍い痛み。鎮静剤が回り、意識がふっと遠のいていく。

月岡古雅は倒れたのを確認し、息を吐いた。

服をすべて脱がせ、冷水を張った浴槽へ沈める。

終えると額の汗を拭い、部屋の電話で119番へかけた。

「ヒルトンホテル、1808号室。お客様が急変し、意識がありません。至急、救急車をお願いします」

受話器を置き、浴槽の中でぐったりした柊木禅司を見下ろす。

口元に、薄い弧。

「柊木禅司。この“挨拶”、気に入ってくれるといいけど」

そう言い残し、鞄を手に取って、何事もなかったように部屋を出た。

——月岡古雅が去って十分ほど。

素早い足音とともに数人が部屋へなだれ込み、浴槽の中で裸の柊木禅司を見て、先頭の冷峻な男が顔色を変えた。

「禅司様!」

柊木禅司はゆっくり目を開けた。体内の灼ける熱は大半が引き、記憶が戻る。

勢いよく起き上がり、自分の状態を確認した瞬間、瞳が細く絞られる。

――あの女。

よくも、ここまで。

柊木禅司は沈んだ声で、部下の新田風に命じた。

「調べろ。この部屋に出入りした女を、今すぐ見つけ出せ」

「はい」

新田風は一瞬ためらい、問いかける。

「禅司様、見つけたら……」

柊木禅司の眼は氷のように冷たい。指先が無意識に、下腹の微かな痛みをなぞった。

「まずは見つけろ。話はそれからだ」

あの大胆不敵な女が、いったい何者なのか――この目で確かめる。

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