第3章 婚約解除

月岡古雅が帰宅するなり、口にしたのは婚約解消の話だった。

「……何だって?」

月岡夫婦は同時に固まり、顔に驚愕が浮かぶ。

「古雅ちゃん、あなた崚介のこと、ずっと好きだったじゃない。あの子に何かされたの?」

原田奈織が娘の手を握る。さっきまでの青白い顔色が脳裏によぎり、声が震えた。

「ふざけるな」

月岡博雄は眉間に深い皺を刻み、低く叱りつける。

「その婚約は、お前の祖父と七瀬のおじい様が昔に決めたことだ。解消だの何だの、簡単に口にしていい話じゃない。両家で進めてる案件も多い……どれだけ影響が出るか分かって言ってるのか?」

古雅は父の視線を真正面から受け止め、怯まない。

「分かってる。だからこそ、早くはっきりさせたいの」

一度息を置いて、言葉を継いだ。

「昔の私は子どもだった。でも今は分かる。無理に結んだ縁は、結局どこかで歪む。好きでもない人に好かれようとして、自分を削り続けるのは、もう嫌。両家の約束のせいで、一生後悔するのも嫌」

さらに、きっぱりと言い切る。

「それに、両家の協力関係なら……月岡グループの力と、パパの手腕があれば、娘の結婚を差し出してまで守る必要なんてないでしょ」

月岡博雄は娘をまじまじと見た。七瀬崚介に夢中で、どんな些細な言葉にも一喜一憂していた古雅が、こんなことを言うなど想像もしなかった。

奈織の目には、心配と痛ましさが滲む。

「古雅ちゃん、ママに言って。何があったの? 七瀬崚介が……」

古雅は舞踏会の件を口にして余計な不安を与えたくなくて、静かに首を横に振った。母の手を握り返す。

「ママ、何もない。私が……やっと分かっただけ。だから、味方になってほしい」

目をまっすぐに上げる。

「婚約解消の話は、私が七瀬家に行って自分でします」

揺るがない光が瞳に宿っている。博雄と奈織は視線を交わし、互いの目に複雑なものを見た。

まるで一晩で大人になったみたいだ。自分の意志を持つようになったのに、その変化がなぜか胸に痛い。

そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

井上が出迎えに向かい、ほどなくして数人を連れて戻ってくる。

先頭には、笑顔を貼りつけた中年夫婦――原田佐介と山口美也子。古雅の母方の叔父夫婦だ。その後ろに、娘の原田紀奈が続く。おとなしく柔らかな笑みを崩さない。

「古雅ちゃんもいたのねえ」

美也子が大げさなくらい明るい声を上げ、リビングを見回す。

「ちょうど近くまで来たから。最近みんなでご飯してないし、お昼ごちそうになろうかなーって。邪魔じゃない?」

奈織は慌てて立ち上がった。

「身内なんだから、何言ってるの。さあ、座って」

奈織は昔から実家のほうに気を回しがちで、弟一家にも何かと手を差し伸べてきた。

紀奈は自然に「おばさん」「おじさん」と呼び、きちんと頭を下げる。

「おばさん、おじさん」

それから古雅に目を向けると、心配そうに眉を寄せ、手を取ろうと近づいた。

「お姉ちゃん、昨日の夜、大丈夫だった? すごく心配で……電話も出てくれなかったし」

古雅はさりげなく身を引き、触れさせないまま淡々と答える。

「大丈夫。スマホ、マナーモードにしてただけ」

紀奈の手が一瞬だけ宙で止まった。けれど笑顔は崩さない。

「そっか、よかった。おばさん、これ……滋養のあるもの少し。お姉ちゃんの身体に」

そう言って、手提げの紙袋を奈織に差し出した。

奈織は受け取り、目を潤ませる。

「紀奈、ほんと優しい子ね。いつもお姉ちゃんのこと考えてくれて」

三人が腰を落ちると、佐介はさっそく博雄に泣きついた。会社の資金繰りが厳しい、今が踏ん張りどころだ、と。美也子は奈織の顔色を褒めたかと思えば、さらりと「この前見た新作バッグがねえ」と話題を滑り込ませる。紀奈は気が利くふりでお茶を注ぎ、やけに尊敬した目で博雄を見上げては口を甘くする。

「おじさんって本当にすごい」

「私も、おじさんみたいにできる人になりたいな」

古雅は黙って眺めていた。

以前の自分は、ただの親しさだと思っていた。けれど今は違う。言葉の端々に計算が透け、笑顔は薄っぺらい仮面にしか見えない。

なかでも紀奈だ。清楚で無害なふりをした表情が、吐き気を誘うほどだった。

食事が進んだ頃、佐介がまた言い出した。

「うちの小さな会社もさ、もう少し規模を広げたくてね。ちょっとだけ資金が足りなくてさ」

美也子がすぐにため息を重ねる。

「今ほんと、商売って厳しいのよぉ」

奈織は困った顔で夫を見る。

そのとき、古雅が箸を置いた。カチン、と澄んだ音がして、卓上が一瞬静まる。

「叔父さん、事業を広げたいのはいいこと。でも、お金を出してもらうより先に……学んだほうがいいんじゃない?」

古雅は穏やかな声のまま言った。

「いつも誰かに頼ってばかりだと、会社って結局、強くならないよね。叔父さん?」

佐介の表情が一瞬、引きつる。すぐに作った笑いが戻った。

「古雅ちゃんの言うとおりだよ。ただ今回は、滅多にない話でね」

「チャンスって、準備した人にしか来ないものだよ。叔父さんなら、きっと大丈夫」

古雅はふわりと微笑み、会話の主導権を渡さないまま視線を紀奈へ移した。

「紀奈、今日のワンピース、可愛いね。新しく買ったの?」

紀奈は胸の奥がひゅっと縮むのを隠し、頬を染めたふりをする。

「うん。先週、友達と買い物してて……セール品だから、全然高くないよ」

「女の子は、ちゃんとおしゃれしないとね」

古雅は頷き、ふと思い出したように言う。

「そうだ。午後、宝飾店に行こうと思ってるの。一緒に行く?」

そして奈織へ。

「ママ、紀奈を連れて少し出てくるね。ついでに、ママのプレゼントも選ぶ」

奈織は借金の話をどう断ろうか悩んでいたところだった。娘が自分から場を変えようとしてくれたのを察し、すぐ頷く。

「うん、行っておいで。二人で楽しんできなさい」

紀奈の目がぱっと輝いた。古雅と買い物に行けば、最後に払うのは古雅だ。

甘い声で弾むように言う。

「うん! お姉ちゃんと行く!」

古雅は口元をわずかに上げた。瞳の奥だけ、冷たい。

——三十分後。

二人は市中心部の高級ショッピングモールにいた。

宝飾店へ足を踏み入れた瞬間、紀奈の目は中央のガラスケースに釘づけになった。ダイヤとサファイアが惜しみなく散りばめられたネックレス。吸い寄せられるように歩み寄り、視線が貼りつく。

だが値札の数字を見た途端、息が止まった。

店員がにこやかに言う。

「お客様、お目が高いです。今年の限定品『星空の涙』でして、世界で一点のみのご用意となっております」

紀奈の心臓がどくどくと跳ねる。横にいる古雅を盗み見て、欲望が顔に滲み出た。

「お姉ちゃん……これ、ほんとに綺麗。こんなネックレス、見たことない。少しでいいから、少しだけでも着けてみたいな……」

言い終えると、縋るように古雅を見る。

いつもなら、その顔をすれば勝ちだった。そうやって、古雅の「優しさ」から欲しいものを引き出してきた。

古雅は紀奈の「欲しい」が塗りつぶされた顔を見つめ、次いでネックレスへ目を移す。

ゆっくりと口角が上がった。柔らかく、甘やかすような笑み。

「気に入ったなら、試してみれば? 今日はお姉ちゃん、気分がいいの。欲しいものがあったら遠慮しないで。好きなの選びな」

紀奈の胸の奥で何かが弾けた。

(選び放題……?)

笑みがこぼれそうになるのを必死で抑え、声が裏返る。

「ほ、ほんと? お姉ちゃん、最高……!」

すぐ店員へ。

「これ、試着したいです!」

店員は古雅の気品に一瞬で納得したように、丁寧な手つきでネックレスを取り出した。

鏡の前で『星空の涙』を首元に乗せる。深い青が肌に映え、光が砕けて顔立ちまで華やぐ。

紀奈はうっとりと自分を見つめた。

次の学園の舞踏会。これを着けて会場に入った瞬間のざわめき。キャサリンの顔色が変わる場面まで、ありありと想像できる。

その一歩後ろで、古雅は静かに見下ろしていた。

紀奈の瞳に浮かぶ露骨な貪欲も、得意げな光も、すべて映してなお、古雅の目は凪いだまま。

何も知らない紀奈はくるりと振り返り、いちばん可愛く見える角度を作る。期待と不安を混ぜた声。

「お姉ちゃん、どう? 似合う?」

古雅は微笑んで頷いた。最後まで、優しい姉の声で。

「うん。すごく似合ってる」

——獲物は、網にかかった。

あとは引き上げるだけ。

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