第4章 原田紀奈への教訓
原田紀奈は唇をつり上げ、ネックレスを指先でゆっくり撫でながら、甘く人を転がすような声を出した。
「お姉ちゃん、崚介兄ちゃんが、私にこんな高いプレゼントくれたって知ったら……きっとお姉ちゃんのこと、見直すよ?」
その口調には、本人すら気づかない薄い嘲りが混じっていた。欲が喉元までせり上がっていて、月岡古雅を完全に“ちょろい相手”だと決めつけている。
「ネックレスなんて、たった300万ちょっと。でも崚介兄ちゃんがお姉ちゃんに抱く好印象は、プライスレスだもんね」
そう言いながら、原田紀奈は勝手にネックレスを販売員へ渡し、ラッピングを頼んだ。しかもわざとらしく月岡古雅にウインクしてみせる。
「お姉ちゃん、ありがと。彼の前で、いっぱい褒めといてあげる」
別に根拠のない話ではない。
学校中が知っている。原田紀奈は七瀬崚介にべったりで、いつも一緒だ。原田紀奈の言葉なら、七瀬崚介は八割は聞き入れる。
前の人生の月岡古雅なら、もしかしたら本気で「この子は私のために」と信じてしまったかもしれない。
でも今は――ただの道化を眺めているだけだった。
月岡古雅は聞こえなかったふりをして、スマホを取り出し、淡々とレース動画をスクロールし始める。
店内に、三十秒ほどの気まずい沈黙が落ちた。
やがて販売員がPOS端末を原田紀奈の前へ差し出す。
「本日ですと2割引きが適用できます。合計で288万円になります」
原田紀奈の表情が一瞬こわばり、反射的に月岡古雅を見た。
「お姉ちゃん、ほら。お会計だって。払ってよ」
月岡古雅はゆっくり視線をやり、あからさまに冷めた声で返す。
「あなたが選んだ物を、私が払うの? どうしてそれを、そんな当然の顔で言えるの」
原田紀奈はカッとなり、声が尖った。
「だって、お姉ちゃんが連れてきたんじゃん! 好きなの買っていいって言ったでしょ。だからお姉ちゃんが払うに決まってる!」
月岡古雅は鼻で笑う。
「好きなの買っていい、とは言った。でも私が買ってあげるなんて、一言も言ってない」
冷たい笑みのまま、言葉を重ねる。
「300万のネックレスを平気で試すくせに、買えないの? 買えないなら、なんで試したの。最初からタダでもらうつもり? 口先で褒めたら、300万が転がり込むと思った?」
原田紀奈は目を見開き、言葉を失った。月岡古雅が急に変わった理由なんて考える余裕もない。ただ、販売員の視線が針みたいに刺さってくるのが分かって、顔がかっと熱くなる。
「……あんた!」
月岡古雅は口元に嘲りの弧を残したまま言う。
「やっぱり、払えないんだ」
周囲の客もこの騒ぎに気づき、好奇の目や、露骨な蔑みを向けてくる。ひそひそ声が重なり、やけに耳に残った。
「え、まさか。お金ないのに、こういう店入ってくるの? 販売員さんの時間、無駄じゃん」
「見栄だよ見栄。写真撮ってSNSに上げて、いいとこ見せたいだけ。図々しいよね」
原田紀奈の顔色は、今にも血が滴りそうだった。
「買いません」と言うだけなのに、それがやけに難しい。
だが相手は300万だ。父親の年収だって、そこまで届かない。
――まあいい。
今日の月岡古雅は確かに変だ。どこが、どう、とは言えない。でも原田紀奈が知っている月岡古雅は、何があっても七瀬崚介を愛している。
これからも、七瀬崚介を盾にして金を引っ張る機会なんて、いくらでもある。
原田紀奈は歯を食いしばり、スマホを取り出して原田佐介へ電話をかけた。声は蚊の鳴くように小さい。
「パパ……私のカードに、300万……振り込める?」
言い終えた瞬間、向こうから裏返った声が飛んでくる。
『はあ!? 300万!? 何に使うんだ!』
原田紀奈の声はさらに小さくなり、自分でも聞こえなくなるほどだった。
「……ネックレスが欲しくて。でも月岡古雅が、払ってくれないの……」
『ふざけるな! 姉のくせに払わないで、なんでお前に払わせるんだ! 電話を代われ!』
原田紀奈は月岡古雅を睨みつけ、スマホを突きつけるように差し出した。
月岡古雅は受け取るなり、迷いなく通話を切った。
「ぷっ……!」
堪えきれなかった笑いが、あちこちで漏れる。
「……っ!」
原田紀奈は怒りで目の前がくらつき、月岡古雅を指さして何か言いかけたが、結局飲み込むしかなかった。
歯ぎしりしながら、もう一度父に電話する。
「……出ない! パパ、早く振り込んで! 私、ここ一秒だっていたくない!」
原田佐介もこの場では引くしかなく、黙って送金した。
原田紀奈はようやくカードを取り出し、販売員へ差し出す。そして店内をぐるりと見回し、わざと声を張り上げた。
「300万くらい、払えないわけないでしょ!」
決済音が鳴り、販売員が包装済みの箱を差し出す。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
原田紀奈は肉が削れるような心地で、作り笑いを浮かべた。面子も、ほとんど守れていない。
嘲笑の視線は、あからさまな冷やかしと皮肉に変わり、ささやきもますます刺々しい。
「どう見ても強がりじゃん。300万で電話してねだるって」
「ネックレス1本で家族が一年飢えても、本人が満足ならいいんじゃない?」
原田紀奈は唇を噛み、周囲を睨みつけて足早に店を出た。
——月岡家。
リビングの空気は、妙にねじれていた。
ソファには月岡博雄と原田奈織が座り、困り顔で黙っている。一方で原田佐介と山口美也子は腰に手を当て、怒りを隠そうともしていない。
「お姉さん、お義兄さん……別に、うちが300万で困るって話じゃないんです。ただ、冷静に考えてくださいよ。紀奈を連れて行ったのは古雅ちゃんでしょう? これ、どう考えても紀奈に恥かかせるための罠じゃないですか」
月岡博雄の表情からは感情が読めない。原田奈織は申し訳なさそうに眉を下げた。
「何かの勘違いじゃないかしら。古雅ちゃん、前は紀奈に優しかったし……帰ってきたら、ちゃんと聞いて——」
言い終える前に、玄関の扉が開く。
月岡古雅が靴音を響かせて入ってきた。後ろに原田紀奈が続く。顔色は最悪だ。
誰かが問いかけるより先に、原田紀奈は目を赤くして原田佐介の前へ駆け寄り、涙声で訴えた。
「パパ……私、どこでお姉ちゃんのこと怒らせたのか分からない。なのに、わざと私を誘導して……あんな恥、かかせたんだよ……!」
原田佐介は娘を痛ましそうに見て、それから冷たく月岡古雅へ視線を投げる。
「俺も分からん。血のつながった親戚だろう。どれだけ性根が悪くても、妹を陥れるなんて——」
月岡古雅は笑った。見下しが、隠しきれない。
「毎日のようにうちに来て金を借りる親戚? あんた、そんなのに金渡したいの?」
言い捨てると、相手の顔色など気にも留めず、月岡博雄へ振り向く。
「連れて行ったのは私。でも買えって脅したわけじゃない。虚栄心のために自分で払っただけでしょ」
淡々と続ける。
「それに、こいつら、これまでだってうちから散々むしり取ってきた。こんな親戚、もう付き合う必要ないと思う。パパ、縁切ろう」
その一言に、原田紀奈がキーッと声を上げた。
「お姉ちゃん、どういう意味!? 私たちがそんな最低みたいな言い方……! 崚介に相手にされないからって、私と仲いいのが悔しくて、八つ当たりしてるんでしょ!」
月岡古雅は冷笑し、手を上げた。
ぱちん、と乾いた音。
原田紀奈の頬がはじけ、室内の空気が凍る。
月岡古雅は氷みたいな目で、原田紀奈をまっすぐ見据える。
「これが、八つ当たり」
