第5章 七瀬涼介に平手打ちする
原田紀奈は信じられないという顔のまま、「わあっ」と声を上げて泣き崩れ、山口美也子の胸に飛び込んだ。
「ママ! あの人が叩いた! なんで私が叩かれなきゃいけないの!」
山口美也子は娘の手をほどき、赤く腫れた頬を確かめる。胸が締めつけられるほど痛ましく、それ以上に腹が立った。
「真っ赤じゃない! 月岡古雅、あんた頭おかしいんじゃないの? 妹にそんなことする? まったく、こんなに躾のなってない子に育って……親御さんもちゃんと叱りなさいよ!」
原田佐介は怒りで胸が上下し、握りしめた拳に血管が浮いた。
「月岡古雅……お前の両親の顔を立ててやってるだけだ。じゃなきゃ――」
言い終える前に、月岡博雄が勢いよく立ち上がり、古雅を背にかばって低い声で言った。
「原田佐介。古雅ちゃんは今まで紀奈にずいぶん良くしてきた。欲しいと言われたら、何でも与えてきた。それが今日、突然手を出したんだ。理由もなくやるとは思えない」
原田奈織は困ったように眉を寄せたが、少し考えてから言葉を選んだ。
「紀奈がネックレスを試したいって言っただけで、古雅ちゃんは買えなんて強要してないよ。最後に支払いをすると言ったのは紀奈自身。それに、払ったとしてもネックレスは紀奈のもののままでしょ?」
山口美也子は目を吊り上げ、声を尖らせる。
「理屈がおかしいでしょ! 叩いたのは月岡古雅じゃないの? 言い訳なんかいいから、今すぐ紀奈に謝りなさい!」
月岡博雄は冷たい表情のまま、はっきり言い切った。
「謝る必要はない。古雅ちゃんが悪いと思うなら、これからは子ども同士、関わらせない。それでいい。……それか、こちらも今後、あなた方とは一切お付き合いしない」
月岡博雄と彼らに血のつながりはない。
原田奈織の縁がなければ、そもそも関わりたくもない相手だ。
容赦のない言い方だったが、原田佐介夫婦は諦めきれず、まだ言い募ろうとする。
「でも――」
しかし言い切る前に、古雅の顔色が良くないのに気づいた原田奈織が、珍しくドアへ歩いて開け放った。
「……今日は、二人に少し冷静になる時間をあげたい。帰って」
その様子に、原田佐介夫婦もこれ以上は得にならないと悟ったのだろう。
原田紀奈の腕を引っ張って外へ向かいながら、それでも捨て台詞を吐く。
「金持ちはいいよな、紀奈。今日の平手打ちは覚えとけ。父さん母さんが情けないせいで、お前が姉の娘にまで見下されて……血縁だの親情だの、金が絡めば誰も俺みたいな弟なんか見ちゃいない!」
原田紀奈はしゃくり上げながら、憎々しげに古雅を睨みつけ、それから原田佐介の後を追った。
客間に静けさが戻る。
原田奈織はふっと息を吐くと、古雅の手を取って心配そうに覗き込んだ。
「古雅ちゃん、今日はどうしたの? 何か嫌なことがあった? どうして急に紀奈を叩いたの。紀奈に意地悪された?」
原田奈織がここまで庇うのも無理はない。
娘がどういう子か、母親が一番よく知っている。
月岡古雅は基本的に人に優しい。少し言い方がストレートなだけで、理由もなく誰かをいじめるような子ではない。
月岡博雄も語気を和らげたが、言葉は揺るがなかった。
「父さんも母さんもいる。誰にもお前を傷つけさせない」
月岡古雅は鼻の奥がつんとした。
涙をこらえ、母の胸に頬を寄せる。
「ううん……ただ、原田紀奈って、見た目ほど純粋じゃないって気づいただけ」
純粋どころじゃない。毒そのものだ。
前の人生で、あいつがいなければ、両親が心筋梗塞で無念のまま逝くことも、兄が崖から転落することもなかった。
今度こそ、取り戻した平穏と幸せを守る。
古雅は原田奈織の手を強く握りしめ、一語一語、噛みしめるように言った。
「お父さん、お母さん。これから原田家の人たちには、もっと気をつけて」
原田奈織は背中をぽんぽんと叩き、宥めるように言う。
「分かった。古雅ちゃん、つらかったね。じゃあ少し距離を置こう。でも……おじさんは、私の実の弟なのよ――」
実の弟だからこそ、無防備に、あいつらに食い物にされる。
けれど古雅には、前の人生の出来事なんて、あまりに掴みどころがなくて信じてもらえないのも分かっていた。
黙り込んだ古雅を見て、月岡博雄は「何か言えない事情がある」と察した。今日の一件も含めて、娘がどこか変わった気がしている。
迷いながらも口にする。
「古雅ちゃん……何か、抱えてるのか?」
月岡古雅は視線を落とし、瞳の奥の複雑さを隠した。
「お父さん、言えないこともある。でも信じてほしい。原田家の人たちは、裏がある。なるべく離れたほうがいい」
月岡博雄は頷く。
しかし原田奈織は、なおも苦しそうだった。
「血のつながりなのに、そんなふうに縁を切るみたいに……それって、どうなのかな」
月岡古雅は静かに諭す。
「お母さん。得することしか考えないのを、親情なんて呼ばないよ。切ったほうがいい」
原田奈織はそれ以上、言い返さなかった。
ただ古雅には分かっていた。証拠がない限り、母の中の「家族幻想」は完全には壊れない。
翌朝。
月岡古雅のスマホが鳴った。七瀬崚介だ。
「月岡古雅。午後、サーキットに来い。俺のレース、見ろ」
淡々とした声。誘いというより命令だった。
月岡古雅は冷たく返す。
「行かない」
電話口が一瞬、詰まる。
七瀬崚介は、古雅が自分を拒むなど想像していなかったのだろう。名もない怒りが湧き、声が沈む。
「忠告してやる。今回を逃したら、俺に会いたくても簡単じゃないぞ」
耳障りで、吐き気がした。
月岡古雅はそのまま通話を切った。
だがふと、前の人生の「今日」を思い出す。七瀬崚介が優勝して脚光を浴び、自分だけが苦しくなった日。
行けと言うなら、行ってやる。
午後。サーキットはざわめきと熱気で満ちていた。
観客席へ向かう途中、月岡古雅は悪意の視線をいくつも感じる。
「月岡のお嬢さまじゃん。また崚介さん目当て?」
「追いかけても相手にされないから、せめて見に来たってこと。脳内で盛り上がってんじゃない?」
古雅が眉を上げて振り返ると、レーシングスーツ姿の男たちが数人、固まってこちらを見ていた。ニヤニヤとした笑い。
七瀬崚介の取り巻きだ。
石川山尾を筆頭にした四人の遊び人ども。昔から、古雅を散々笑いものにしてきた連中。
古雅は露骨に嫌悪を滲ませて一瞥し、スマホを取り出しながら言った。
「『口は災いの元』って言葉……あなたたちには難しい?」
石川山尾が鼻で笑い、古雅のスマホを指して大げさに眉を跳ね上げる。
「月岡さん、どこにチクるつもり?」
別の男が吹き出した。
「チクりじゃないだろ。七瀬様のこと好きすぎて命みたいなもんだし。犬にでもなりたいんじゃね? 俺ら七瀬様と仲いいし、月岡が逆らえるわけ――」
次の瞬間、月岡古雅の澄んだ声が通った。
「お父さん。石川グループと小林グループ、それから……全部、取引を打ち切って。今後、付き合いもなしで。あと、石川グループの以前の契約、抜け道があったよね。あれ、抜け道を使って騙し取ってる。詐欺で訴えたい」
通話は切っていない。
石川山尾の顔から血の気が引いた。
「お、お前……本気かよ!」
月岡古雅は口元だけで笑う。
「うん。本気。楽しい?」
石川山尾は謝って丸く収めようとしたが、古雅が昔どれだけ七瀬崚介に入れ込んでいたかを思い出し、まだどこかで「脅しだ」と高を括った。
その甘さを叩き潰すみたいに、着信音が鳴る。
「石川山尾! うちは月岡グループに助けてもらわなきゃ終わりだってのに、お前は何やってる! お嬢さまを怒らせただけじゃない、訴えられるだと? もう帰ってくるな、出て行け!」
石川山尾はそれ以上聞けずに通話を切った。背中に冷たい汗が流れる。
続けざまに、他の取り巻きたちのスマホも鳴り始めた。
数人が一斉に青ざめ、腰が抜けそうになる。
もう面子なんてどうでもいい。
石川山尾は今にも泣きそうな顔で、土下座でもしそうな勢いで縋った。
「月岡さん! 俺が悪かった! どうか勘弁してください!」
月岡古雅は相手にする価値もないとばかりに踵を返す。
だが、その進路へ二つの影がすっと入り込んだ。
原田紀奈が新しいネックレスを撫でながら、面白がるように見ている。
その隣で、七瀬崚介が沈んだ顔をしていた。
「月岡古雅。ふざけるのもいい加減にしろ。今すぐ、こいつらに謝れ」
月岡古雅は冷笑し、指先でちょいちょいと手招きした。
「じゃあ、あんたが来なよ」
七瀬崚介は、ほら見ろと言わんばかりに思ったのだろう。月岡古雅は結局、自分の手のひらから逃げられない――そう信じて疑わない。
だが高い態度だけは崩さず、冷たい顔で数歩近づく。声には得意げな色が滲んだ。
「反省したか?」
パァンッ!
月岡古雅が手を返した瞬間、乾いた平手打ちの音が響いた。
七瀬崚介の頬が、かっと熱く痛んだ。
