第6章 レースを提案する

場が、しんと静まり返った。

取り巻きのボンボンたちは絶望したように目を閉じる。月岡古雅が七瀬崚介にすらあれだけ容赦しないのなら、縁もゆかりもない自分たちなど、ひとたまりもない――そう思ったのだろう。

原田紀奈は、ぱちん、ぱちんと響く平手の音を聞いているうちに、自分の頬までじんじん痛んできた。それでも形だけは取り繕い、七瀬崚介の顔を覗き込む。

「崚介、大丈夫?」

そう言うと、今度は責めるように月岡古雅へ視線を向けた。

「もう……お姉さまったら。恋愛って、無理にどうこうするものじゃないのに。悔しくても、叩くなんてだめよ」

七瀬崚介の顔が、かっと赤くなる。屈辱で瞳が血走り、歯を食いしばった。

「……俺を殴ったのか?!」

「殴ったら何?」月岡古雅は冷ややかに笑う。「信じられないなら、もう一発いく?」

七瀬崚介の頭が真っ白になった。

こいつ、何様だ。

あれほど自分に執着していた女が、なぜこんなに図々しい?

……まさか、心変わり?

いや、ありえない。十年以上も自分を持ち上げ続けてきたのが、月岡古雅だ。

――きっと、俺が冷たくしすぎたから。こうやって気を引こうとしてるんだ。

そう思った途端、七瀬崚介の怒りはすっと引いた。月岡古雅を見下すように一瞥し、嘲る口調で言い放つ。

「そんなやり方で俺の気を引こうとか、幼稚にもほどがある。今まで俺が甘やかしたせいで、増長したんだろうな。チャンスは一回だけだ。石川山尾に謝れ」

月岡古雅は吐き気をこらえるのに必死だった。七瀬崚介の自意識過剰さに言葉も出ない。ただ淡々と返す。

「謝罪はありえない。けど、友だちの顔を立てたいなら――いっそレースで勝負しない? カーレース」

七瀬崚介が鼻で笑う。

「運転もできない女と勝負しても、勝って当然だろ。むしろ卑怯なくらいだ」

横で原田紀奈の目がきらきら光った。月岡古雅が恥をかく瞬間を、今か今かと待っている。その期待を隠しもせず、七瀬崚介の袖を軽く引く。

「崚介。お姉さま、もしかしたら運転できるかもしれないよ? 勝負したいのも、あなたに自分のいいところを見てほしいからだと思うの。ね、チャンスをあげよ?」

七瀬崚介は冷笑した。

「こいつに、いいところ? どこがだよ」

月岡古雅は呆れたように白目をむく。

「ぐだぐだ言わないで。つまり、怖いの?」

七瀬崚介の顔が強張った。

「誰が怖がるか。お前が負けて恥をかくだけだ」

月岡古雅は薄く笑う。

「勝つのがどっちか、まだ分からない。場所は裏山の峠。スピード勝負で」

七瀬崚介は眉をひそめ、月岡古雅をじっと見た。

「手が込みすぎてきたな。でも俺には通用しない。自業自得だぞ」

月岡古雅は最後まで聞きもせず、踵を返して去っていった。

取り残された七瀬崚介は、一瞬だけ気まずそうに口をつぐむ。

だが原田紀奈は機嫌がいい。甘い声でなだめるように言った。

「崚介、あなたが普段からお姉さまに冷たすぎるのよ。今のお姉さま、ちょっとおかしいもの。あとで少し手加減して、あんまり惨めにしないであげてね」

七瀬崚介が鼻を鳴らす。

「勝負を挑んできて、負けが怖いわけないだろ。紀奈、お前は優しすぎるんだよ」

……

三十分後。

裏山の峠道の入口には、人だかりができていた。黒いマイバッハ、赤いフェラーリ、銀のランボルギーニ――十数台の高級車が路肩に並び、エンブレムが夕陽に冷たく光る。

「七瀬様が来たぞ!」

誰かが叫ぶと、人波がさっと割れて道ができた。

七瀬崚介は鮮やかな青のスポーツカーで現れ、停車するとドアを開く。ひゅう、と口笛が飛び、歓声が上がった。

周囲を見回した彼の目に、得意げな色が走る。そして顎で月岡古雅を指す。

「今なら負けを認めても、そこまで恥はかかないぞ」

月岡古雅は自分の黒いスポーツカーにもたれ、指先でとん、とんとドアを叩く。

「それ、いいこと言った。じゃあ聞くけど――負けたらどうする?」

七瀬崚介が面倒くさそうに答える。

「好きにしろよ。何がいい?」

月岡古雅は口角を上げた。

「全裸で走る」

一瞬で周囲がざわめき、次の瞬間には爆発するようなどよめきに変わった。

「は? 全裸? 月岡古雅ってそういう趣味なのか、本人が走りたいだけだろ!」

「七瀬様とレースとか無謀すぎ。これは目の保養だな!」

七瀬崚介の顔が沈む。月岡古雅を上から下まで見て、鼻で笑った。

「いいだろ。身の程知らずめ」

点検を終えると、二人はそれぞれ車に乗り込んだ。

「3、2、1――スタート!」

合図と同時に、七瀬崚介がアクセルを踏み抜く。

ぶおん! とエンジンが唸り、矢のように飛び出した。

だが月岡古雅は動かない。赤いテールランプが遠ざかって消えるのを見送ってから、のんびり座席を調整し、メーターをもう一度確認した。

そして――たっぷり三十秒。

ようやくアクセルを踏む。

黒い車体は、するする、と前へ進み出した。速度は市街地のドライブと大差ない。

「は? 散歩かよ!」

「それで七瀬様に勝負とか、頭おかしくなったんじゃね? フラれて壊れたか!」

「笑える。見張っとけよ、途中で逃げるかもしれねーぞ!」

「だよな! 俺、全裸走り見るまで帰らねえ!」

野次が四方から飛び交う。

観客席では大画面に視線が釘付けになり、月岡古雅が恥をかく瞬間を、一秒たりとも見逃すまいとしていた。

そのとき――。

少し離れた峠道の入口に、黒い高級車が静かに滑り込んできた。

金文字の「9999」ナンバーが見えた途端、視線は一斉にそちらへ吸い寄せられる。レースの展開など、誰も気にしなくなるほどに。

人群がどっと沸いた。悲鳴に近い歓声が上がる。

「うそ……柊木社長の車じゃない!? 来たの? 本物が見られるの!?」

「柊木社長って、こういう場に絶対出ないじゃん……学長が頼んでも首を縦に振らないって」

「七瀬様の顔だろ。七瀬様、柊木社長とツテがあるって言ってたし。仲良いなら来るのも普通だって!」

柊木禅司はまだ車内にいた。部下からの報告が脳裏をよぎる。

あの女の名は月岡古雅。セントモン国際学院に在籍。

そして今日に限って、セントモン学院から観戦の招待が届いた。

あれほど大胆な女を、このまま見逃す気はない。

思案していると、外で待ち構えていた井上学長が慌てて駆け寄り、ドアを開けて深々と頭を下げた。

「柊木さん、このたびはお越しいただき誠にありがとうございます。試合にこれ以上ない箔がつきます。特等席はすでに空けてございますが、すぐご案内いたしましょうか。それとも――」

柊木禅司は淡い視線のまま――ふと、スクリーンに映る顔に目を留めた。

見覚えがある。

車内で気だるげにレースに参加している女。あの日、ホテルで自分に手を出した――あの女だ。

レースだと分かっていなければ、天気がいいから日向ぼっこでもしているようにしか見えない。

柊木禅司は窓枠に指先を添え、気づかぬうちに目に遊びの色を滲ませた。

……面白い女だ。

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