第7章 負けた者は裸で走る
レース開始から十分も経たないうちに、七瀬崚介はすでに大きく先行していた。
勝利を確信して酔いしれていた、そのとき。スマホが鳴る。
出ると、原田紀奈の弾んだ声が飛び込んできた。興奮で、震えているのがわかる。
「崚介! ねえ、誰が来たと思う? 柊木禅司! 柊木社長がサーキットに来てるの!」
七瀬崚介は一瞬言葉を失い、それから自分でも驚くほど胸が高鳴った。
「……なんで、あの人が?」
「決まってるでしょ、あなたのためよ」原田紀奈はすぐに言い切る。甘く柔らかい声で、しなだれかかるように。「学校中が知ってるもの。柊木社長って、普段どれだけクールで、学長先生が頼んでも動かない人なのに。あなた以外に、わざわざ来させられる人なんている? 今日のレースの噂を聞いて、崚介のために“場”を締めに来たのよ、絶対!」
七瀬崚介は、そこまで考えていなかった。
だが、持ち上げられた瞬間、背筋が勝手に伸びる。
――そうだ。二年前、柊木社長と食事をしたことがある。パーティでも何度か挨拶を交わした。顔見知りと言っていい程度の縁はある。
それに今日は、招待状を広く出した。その中に柊木禅司も入っていた。
まさか本当に、俺の顔を立てて来るとは。
なら、見せ場を作らないと。
柊木禅司と繋がりが深くなれば、得なんていくらでもある。
通話を切った七瀬崚介は、深く息を吸い込み、目を鋭くする。ステアリングを握る指に、力がこもった。
裏山の山道はコーナーが多い。腕に自信はある。だが、トップレーサー級かと言われれば、まだまだ差がある。
二つ目のカーブを抜けた直後、車体がぐらりと揺れた。
額に冷や汗が滲む。
「……くそ」
月岡古雅が変に張り合って、山道なんて選ぶからだ。
カーブが多い上に道幅が狭い。車体を安定させるだけで精一杯になる。
それでも――柊木禅司が見ている。そう思うと引くに引けない。歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。
一方の月岡古雅は、シートに身を預けたまま。
ヘッドセットからは穏やかな音楽。窓の外を流れていく景色を、たまに横目で眺める程度で、表情はどこまでも悠然としている。
七瀬崚介の自信と自尊心を折るなら、本人がいちばん誇っている“レース”で叩き潰す。しかも、言い訳の余地がない形で。
半分くらい先に行かせたところで、何が変わるというのか。
だが、観客はそんなことを知らない。
貴賓席で、柊木禅司が腰を下ろした途端、周囲のざわめきが耳に入ってきた。
「七瀬様の勝ちで決まりだろ。月岡古雅の走り、散歩みたいじゃん」
「柊木社長の前で恥かくな、あれは」
「その程度で七瀬様に喧嘩売るとか、命知らずすぎ」
柊木禅司は、淡く視線を流しただけ。目の奥は凪いだままだ。
――素人が。半分もレースを理解していないくせに、よく騒げる。
七瀬崚介は確かに前を走っている。だが車体は落ち着かず、コーナーごとにミスが散見される。余裕が削られているのは明らかだった。
対して月岡古雅は遅い。だが、操作は機械じみた精度で、寸分の狂いもない。
あの技術なら、勝つのは瞬きするほど簡単だ。
――つまり、遊んでいる。相手を弄ぶ気だ。
「半分だ! 七瀬様、半分もリードしてる!」
観客席の誰かが叫んだ。
皆が一斉にモニターへ食いつく。
画面の中の月岡古雅は、ふわぁ、と欠伸をひとつ。
次の瞬間。
目が鋭く光り、アクセルを床まで踏み抜いた。ステアリングが彼女の手の中で滑るように回り、車体はぶれずにコーナーを切り裂いていく。
速い。異常なほどに。
数分もしないうちに、七瀬崚介の背中が近づいた。
「やべえ……月岡古雅、頭おかしいだろ! その速度で曲がるとか、死ぬぞ!?」
「ベテランでもやらねえよ! 運転わかってんのか、あいつ!?」
観客が目を見開く。背筋に冷たいものが走るのが、自分でもわかる。
柊木禅司も例外ではなかった。死線を見慣れているはずの彼でさえ、眉間がわずかに寄る。
――命を捨てに行っているのか。
ほどなくして、月岡古雅の車は七瀬崚介の横に並んだ。
隣の車影を捉えた七瀬崚介の顔から、得意げな色が一瞬で消える。瞳孔がぎゅっと縮んだ。
動揺が口から漏れる。
「ありえねえ! あんだけ遅れてたのに、なんで追いつけるんだよ!」
月岡古雅は、冷えた視線を一度だけ向け――中指を立てた。
七瀬崚介の血が沸く。負けてたまるかと、アクセルを踏み足す。
だが前方に待っていたのは、ほぼ120度の急カーブ。
角度だけじゃない。道幅が異様に狭い。
この速度のまま突っ込めば、事故る確率は六割を超える。七瀬崚介にも、それがわかった。
――でも、ゴールはもう近い。ここで置いていかれたら、挽回はない。
迷いが喉を塞いだ、そのとき。
隣で、轟々と雷鳴みたいなエンジン音。
月岡古雅は一切ためらわず、高速のままカーブへ飛び込んだ。
七瀬崚介も歯を食いしばり、追い縋る。
その瞬間――月岡古雅の車が、すっとこちらへ寄ってきた。
距離が一気に詰まる。1メートルもない。
――死ぬ。
その考えが頭の中で膨れ上がり、視界が白くなる。
寄せている。ぶつけられたら終わりだ。確実に、死ぬ。
七瀬崚介は、怖じ気づいた。
完全に、心が折れた。
反射的に減速する。恐怖が大きすぎて、アクセルとブレーキの感覚すら曖昧になっていく。
身体の痺れが解けたころには、月岡古雅はもう、遠くへ消えていた。
やがて――月岡古雅の車が、先にゴールラインを切る。
「月岡古雅だ! 月岡古雅が勝った! うそだろ……!」
「さっきのコーナー、七瀬崚介がビビらなきゃ月岡古雅も勝てなかったぞ! 男のくせに女が怖いのかよ!」
「これ、七瀬崚介どう落とし前つけるんだ?」
煮え立つような喧噪の中、月岡古雅はドアを押し開けて降りた。動きは無駄がない。
しばらくしてから、ようやく七瀬崚介の車が到着する。
顔色は鉄みたいに青黒い。もたつきながら降りる姿は、みじめだった。
月岡古雅が見下ろして言う。
「そんな顔しないで。これからもっと酷い顔になるんだから。さっさと脱いで。二度は言わない」
七瀬崚介は歯を噛みしめる。
「……お前、本気なのかよ」
「本気じゃなきゃ何?」月岡古雅は眉を上げ、声を少し張った。「これだけ人が見てるんだよ。まさか、踏み倒す気?」
七瀬崚介は周囲を見回す。人、人、人。面白がる視線が火のように肌を焼く。
しばらく逡巡し、全裸で走る光景を思い浮かべた瞬間、全身が熱くなった。
声が弱くなる。
「……面子、立ててくれよ。長い付き合いだろ? お前、結局は俺に構ってほしいだけなんだろ。わかった、これからは――」
「いらない」月岡古雅は苛立たしげに遮る。「誰も欲しがらないゴミを押しつけないで。面子がいくらするかって? 倍で買ってやるよ」
吐き捨てるように続ける。
「忠告しとくけど、賭けに負けて裸で走ったって噂のほうが、踏み倒したって噂よりマシだよ」
七瀬崚介も悟った。月岡古雅は、簡単に見逃さない。
激しい葛藤の末、彼は歯を食いしばったまま、のろのろと服を脱ぎ始めた。
最後の一枚が落ちた瞬間、会場が爆発する。哄笑、口笛、嘲りの声。
「七瀬様、ほんとに脱いだ! うわ、目が腐る!」
「七瀬様が負けた! 七瀬様が脱いだ! 七瀬様――ちっさ!」
「七瀬様、服着てるほうがカッコいいっすよ……」
毒虫に噛まれるみたいな言葉が、次々に刺さる。
七瀬崚介は、どうやって耐えたのか自分でもわからない。
100メートルにも満たない距離が、一生みたいに長かった。
やっと終わる。
彼は慌てて服を掴み、乱暴に身にまとい、振り返って逃げ出そうとした。
そのとき、遠くから近づく足音。
遅れて現れた原田紀奈が七瀬崚介に目を輝かせ、弾む声で言った。
「崚介! 勝ったんでしょ?」
言いながら、わざと月岡古雅へ視線を向け、いかにも“理解ある子”の顔を作る。
「もう、崚介ったら。お姉ちゃん女の子なのに裸で走れなんて可哀想だよ? 今回は許してあげなよ。ほら、お姉ちゃんって技術が足りなくて負けちゃっただけだし……かわいそう……」
技術が足りない。
かわいそう。
七瀬崚介の顔が、さらに歪む。彼は原田紀奈を睨みつけた。
原田紀奈はびくっとして、ようやく状況を悟る。
「え……崚介、まさか……負けたの?」
柊木禅司の前で目立つチャンスを探していた。七瀬崚介が勝つと信じ切って、レースをろくに見てもいなかったのだ。
それなのに、七瀬崚介が負けた?
ありえない。
月岡古雅は、レース経験ゼロのはず――。
七瀬崚介は原田紀奈を相手にする気にもならず、冷えた目で月岡古雅だけを見据えた。
だが月岡古雅は、満足したらしく帰ろうとしている。
七瀬崚介はこの屈辱を飲み込めない。三歩で距離を詰め、陰のある顔で行く手を塞いだ。
「帰れると思うなよ。そんな簡単に終わるか!」
月岡古雅は眉を上げ、淡々と見返す。
その手のひらが、今にも動き出しそうになったとき。
低く、腹の底に響く声が割り込んだ。
「どけ」
